薔薇と海原
頭を横切る不安みたいな感情に、部下を呼ぶ声を鋭く飛ばそうとも、緑色に吸収された。先ほどまで藍色の海原を見据えていたはずなのに、なぜ目の前に広がっているのは緑の庭園なのか? 散在する赤色が、死体と流れて飛び散る血液ならば安心も出来よう。しかし、見慣れないその形は、おそらく薔薇の花であった。
世界をまたにかける海賊船の船長たるもの、焦るなんて無様は流石にしない。一番に考えられる可能性として、遭難を考え体を確かめる。怪我は無い。服だって濡れて乾いたようでも無い。海を流されてここに居るのではないとしたら、どうやって? まずもってここはどこなのだ! いつもなら部下に当り散らすような場面で、独りというのはやりきれない。揺れない地面に、揺れる頭。苛立ちから、腰にさした剣を抜いて、ばさり、薔薇の垣根を斬った。斜めに、ばさり、切れ込みからまるで血の様に赤い花びらが舞う。
「何してる」
背後から、突然に声を掛けられる、余りにも珍しい事象に少なからず彼は驚いた。そして間抜けにも無防備に振り向いた、振り向いてしまった、その首に、鋭い刃物が薄皮一枚、刺さる。手の平に納まる曲線的な刃物は鋏の一種だろうか、視界から得られる情報はそれだけだった。いや、明確な情報は理解が出来なかった。まるで、自分と同じ顔の男が、自分に刃物を突きつけていたのだから。首に感じる痛みすら久しい感覚で、一体今日はどんな厄日なのか! 疑問はさて置いて、相手の首を狩るつもりで剣を振り上げる、しかし小さな鋏に、カキン、阻まれ、剣を取り落とす。
「園芸鋏なんて見たことねぇだろ」
にこり、壮絶な微笑みに、足がすくんだ。恐怖ではなく、鏡を目の前に置いたような、非現実感。足元が揺れる、いっそ海原ならば波の動きにだって耐えられるというのに、動かない地面というのはなんと立ちにくいものなのか! ふらり感じた貧血に、目を瞬時瞑った、目の前の男にはそれで十分であった、当然だ、自分だって瞬間の隙は見逃さない。右腕を後ろ手に捻られて、そのまま垣根に押し付けられた。頬に刺さる、小さな無数の棘。見開いた目に、身じろぎ一つで刺さるであろう紅。青臭く、甘い、甘い香りに酩酊する視界。
「自分だからって、容赦はしねぇぞ」
俺だって散々やられたんだからな、耳朶に、直接響く台詞。背に圧し掛かる体の、そのラインを自分は知っている。そして、この男だって、自分を知っているのだ! 腰から、マントの裏地、ブーツの隙間まで、確実に見つからないであろう隠し武器を、片手だけで全て奪っていく男。見知らぬ場所で、身包み剥がれて、頬に食い込む棘の小さな痛み、甘い香りと、絶体絶命な状況において、場違いにもこれからの展開を想像して、興奮、体が震える。なんだ、分かってんじゃねぇか、うなじに掛けられた吐息。
「安心しろ、俺が生きてる」
肌を刺す棘の、微かな痛みは快楽に似ている。肺を埋める酩酊、聞こえない海鳴り、静か過ぎる大地が、背後の男によって揺らされる。足は、確かに揺れを感じていた。