陽のよぎり、夜うつろい
空教室に誘われて、音無はもう野球をすることはない薄く白い手に応えた。瞳が凍えるように冷えていたのに気がつかぬまま。
“…暇だよな?なあ?”
息継ぎの間に離れるのも辛いとばかりに漏れる吐息に、音無の手から教科書がばさばさと落ちていく。どのみち生前に学んでいるから、中身はとうに頭に入っている。
「だめだ…もっと。」
壊れたようにくちづけを求める日向に、望む通りに音無はキスを与えた。抱えたまま戸を開け、倒れこむ。
「持ってる?」
日向の言葉に、音無は少し目を細めてから、懐に入っていたゴムを取り出した。
薬を使っていた事を野球の試合の時に口にしてしまってから怖くて仕方がない。あの時は後で部屋に戻ってから、音無は今からでも体は大事にしろと怒ってくれた。大変だったね、辛かったねと慰められるより、日向にとっては自分を思って言ってくれたのだとわかっていたから素直に嬉しかった。
死んでからようやく得られた確かな繋がりを失くしたくなくて、本当ならいつかの未来で消える瞬間まで秘密にしておけばよかったのだろう。
けれど日向は打ち明ける道を選んだ。
「俺はお前の事が好きだよ。昔のことでお前が自分の事を許せなくたって、俺はお前の事を嫌いになんてなれねーよ」
音無は、待つつもりだった。
「おとなし…」日向の声が震える。弱弱しく瞼が下ろされる。
最初は嫌われるんじゃないかとそればかりが恐ろしかった。
だが今は、その過ちの記憶を音無にも負わせてしまった事が胸に後悔の影を落としていた。
「おとなし、…いっ」
「いーよ、全部ぶちまけちまえアホ日向」
言葉とは裏腹に音無の手は酷く優しく日向の髪を梳く。いつか名前の通り彼が陽の明るさを感じられるように。
首を振るのも拒否の言葉を紡ぐのも惜しいとばかりにもがく必死さで日向は首にすがりついた。そうすれば不安が和らぐと信じているかのように。
桔梗の色を映した滑らかな髪、影のない白い肌、音無は薄蒼い影を抱き留めた。
校舎全体がはたと灯を落し、伽藍とした校舎が闇に落ちる。
音無の温もり以外に、もうなにもみえなかった。
作品名:陽のよぎり、夜うつろい 作家名:紅路