神様にでもなったつもりで
丸まった小さな背を眺めながら、けれど少年は声を上げず密やかに呼吸を開始する。
随分と前、友人に指摘された事がある。「お前、何かある毎にそうするよな」だったろうか。笑い混じりだった気もする。帝人自身、言われるまで気付く事はなかったが、言われてからは成程確かによくやってしまっているな、と感心したのだった。
緊張した時、驚いた時、怖い時、それから、何かに縋り付いてしまいたい時、自分はいつもそこへ指を伸ばす。この行動に名を与えるとするならば、一種の安定剤のようなものなのだ。癖と言ってしまえば終わる程の小さな波打ちが、たった一言で自己を考える切欠となり、簡易な結論に至る。そんな事実を、帝人は恐ろしくもあり、また嬉しくも感じていた。得体の知れない情を浮かべつつ更に辿っていくと、若干気恥ずかしい気持ちで照れ笑いをした自分が朧に引き出されていく。
しかし、惜しい事に飽く迄曖昧の内を出ない。おはよう、おやすみ、また明日、決まり文句と同じトーンで吐き出された日常的な言の葉だったからかも知れない。今となっては解り得ない話になってしまっている、その事すら忘却に落として。ともかく冒頭の友人の言葉は当時の少年には己を見直す程度にしかならず、思い出として消化され、何かを思う前に上から月日が被さって見えなくなっていったのであった。
そう、それだけだった。針を刺されたような痛みを感じながら少年は努力をする。急激に冷えた心の隙間から現実が侵入を試みるのを、静かに受け入れようとする。深呼吸ののち、目を閉じる。一つだけぽつんと残るのは、一見薄っぺらな言葉の奥に何を隠していたのだろう、という疑問と、それを見抜けなかった事に対する漠然とした後悔の念だ。
馴染んだ鞄の持ち手を無意識に握り締めて、秒針が半周している。三十秒。
手を離すと、皺の寄った持ち手がだらりと垂れ下がり肩に重みを感じた。大した物は入っていない筈なのに、とても重い。なぜだろう。ぼうとした頭に問い掛けても答えは無だったから、諦めて思うままに回想を始める。特に目的がある訳でも無かった。ただ、この池袋という街に、至極溶け込んでしまいたかった。ふらりと密室から脱出し、帰りに生活に必要なだけの色々なものを買って。
単純に言ってしまえば、暇を持て余していたのだ。そんな軽い気持ちで外出したからか、注意力が散漫になっていた事は否めない。本来ならばそれはそれなりに重大なミスであったのかも知れないが、少年の中では、どこまでもひとごととして処理されてしまう。何の感情も抱かせない。抱く余地を与えない。動かない眼球を無理矢理に動かして、肌身離さず持っていくはずだったアパートの鍵を視界に収める。彼の、指先に触れるか触れないかの位置で、転がっている安っぽい鍵。
帝人はその場から一歩も動いておらず、時間も僅かしか経過していなかった。しかし、両手の平に尋常ではない程の汗を掻いていた事が、どうしても一瞬の出来事と思わせない。無風の室内で扇風機が死にそうな音を立てながらカラカラと回っているが、それは汗に塗れた帝人には届かず、道中で風をも死なせた。暑さは感じていなかった。寧ろ、見る見るうちに冷えていく、落ちていく己の体温に、焦りすら覚えている。
漸く脳が反応する。なぜ、握っていたのだっけ。緊張した時、驚いた時、怖い時、何かに縋り付いてしまいたい時。それから、。動き始めたばかりのそいつを使って強引に思考を回転させると、視界まで一回転してしまいそうな感覚がして、思わず壁に手をつく。汗の所為でずるずると滑り、意図して力を込めないとブレーキもままならない。眩暈と実感するまでに更に時を要する。吐き出した呼気が情けなく震え、けれど視線は一点から逸らさずに、壁から手を離し、次に半開きの口元を覆い隠した。女々しい、どこかでそんな声が聞こえたが、無視した。
(こわい)
怖い?此処に正臣が居る事が?(ちがう)では、何だ。嬉しい?偶然と呑み込んでしまうにはあまりに大き過ぎる幸だから?――解らない。混乱しざわめく脳はろくな答えを提示せず、完全に使い物にならなくなった少年は、残り僅かな理性をありったけ掻き集めて、ただただ静かに歩を進める。
気付かれてはならない。気付かれてはならないのだ。絶対に。根拠も無く、命じ続ける。どうして隠れなければならないのだろう。疑問はすべて排除され、消えていく。本当に、口では何とでも言えるのだな。動揺してから初めて浮かんだまともな意見は、五指と同じように冷たく響いた。
神様にでもなったつもりで
(100530)
作品名:神様にでもなったつもりで 作家名:佐古