健やかな眠り
目の前には、一面に紅が散らばっていた。あまりにも鮮やか過ぎて、目に痛い。周りでは悲鳴が上がったりしていたけれど、僕は多分、あまりにも唐突な出来事に現状が全く認識できなくてただただ目をそらすこともできずにそれ、数分前まで人間だったものを見ていた。
石榴のようだ、と思った。鮮やかな紅を散らせるそれは、あの果実を割った時の光景に似ていて、そういえば石榴の実は人肉の味がする、とどこかで聞いたことがあるのを思い出した。そんな半分壊れかけた僕の思考を、臨也さんが腕を引っ張ることで押しとどめる。多分今の僕の状態を正しく理解しているのだろう。何も言わずに僕を引き寄せて、喧騒に覆われた駅を抜け、タクシーに乗せた。僕はまだ人間の死ぬ瞬間を見たという実感が湧かなくて、いつもより優しい臨也さんの手つきに違和感を感じただけだった。
臨也さんのマンションに着くと、今まで黙っていた彼がようやく口を開いた。
「ああいうの見るの初めて?都会じゃ電車への飛び込み自殺なんてけっこうありふれてるんだけど。
俺はあんまりおすすめしないけどねぇ 傍から見てきれいじゃないし。まあそもそもきれいな死にかたなんてあるのか謎だけど。」
その言葉のせいで、今まで現実として認識していなかった光景が、鮮やかに蘇って実感を伴ってくる。
ひどい吐き気が襲ってきて、僕は臨也さんの軽口に応えることができなかった。
「あらら。本当につらそうだねぇ。かわいそうに。」
声だけは心配そうに聞こえるが、その表情は面白がっていることを隠そうともしない。
「確かに気持ちいい光景じゃなかったけど、それだけじゃない。気持ち悪さなら毛虫が潰れてるのとかのほうが上だと思うけど。」
「あれは人間ですよ。虫とは違います。」
「死体になったらどちらも同じ。ただの有機物だよ。」
この人は常に人を愛してる、などと言っているけれど、それはあくまで生きている人が対象なのだろう。
死んでしまった人は、この人にとって毛虫と同程度の価値しかないらしい。
そこまで考えたところで、僕は吐き気に耐えられなくなって、トイレに駆け込んだ。脳内に紅がこびりついて、気持ち悪くてしょうがない。胃の中のものを全て出してしまった後で、臨也さんがやってくる。
「大丈夫?苦しい?お水持ってこようか?」
優しい声、優しい手つきで僕の背を撫でてくる。
「もう大丈夫です。」
僕はその優しさについ、身体を寄せてしまう。
「やっぱり弱ってる時の帝人くんってかわいいな。役得役得。」
そのふざけた口調が頭にきたけど、人肌の心地よさに僕は抵抗できなかった。だから、臨也さんが
「こういう時は寝ちゃうに限るよ。怖くないように俺も一緒に寝てあげるから。」
とあやすように言って僕を抱えてベッドに直行しても、僕はおとなしかった。
いつもは一緒のベッドに寝ようものならうざったいほどちょっかいをかけてくる臨也さんは、気を利かせたのかはたまた疲れていたのか―まあ恐らく後者だ―早々に寝息が聞こえてきた。相変わらず太い神経をしている。こちらは目をつむったら先ほどの光景が蘇ってきそうで、とてもではないが眠れない。
ふと、この人に眠れない時などあるのだろうかと考える。忙しいとかそういう物理的要因でなく、精神的な要因でだ。
たとえ自分のせいで人が死のうが平然としているし、死体だって見慣れてる。恐怖を感じているところも見たことがない。
そんなこの人は、きっと毎日大好きな人間の夢でも見ながら健やかな眠りを貪るのだろう。僕が死んでも、きっと同じ。
やはりあの毛虫をみるような目で僕の死体を見て、健やかな顔で眠るのだ。
臨也さんの寝息が部屋を満たして、それは一種の静寂のようだ。
それでも僕は、ずっと目を開いていた。