十六夜
十六夜月は西の方へと移っていた。ビルの屋上の一角にミミコは座って言った。
賑やかだった昨日と比べると随分と静かな月見だった。仕事を終えて帰って何となく始
めたものだ。
ジローはミミコの隣に腰を下ろす。
「本当に音痴ですよ」
「いいから」
唇から零れる『月の沙漠』。
幼い頃、祖父から習った歌。彼が愛しい人に捧げる歌。そして幼い弟へと聞かせた歌。
「ここへ来る道中もコタロウと歌いました。最もコタロウは途中で寝てしまうことも多か
ったですが」
「コタロウ君の子守唄だったのかな」
ミミコはクスリと笑う。
そんな彼女を見てジローは目を細めた。
快活で明るい少女。まるで『太陽』のように眩しい少女。
「ほら、続き」
彼女に促されて続きを歌う。
途中まで歌っていると彼女が肩にもたれかかってきた。心地よさそうに寝息をたててい
る。
「困りましたね」
言葉とは裏腹に優しい声音だった。
疲れているのだろうか、目を醒ます気配はない。肩にかかる重みが妙に心地よい。
ジローはふと、目蓋を閉じた。
思い浮かぶのはたくさんの人。その中で一際輝く金の髪の女性。自分の総てを捧げた人
。
そして一滴、涙が頬を伝った。
何よりも彼自身が驚いた。
「……さん」
ミミコの手が彼の頬に触れる。
「ジローさん。泣いてるの?」
戸惑うミミコの声にかぶりを振る。
「泣いてなんかいませんよ」
聖域を出る時誓った。弟が目覚める時、この総てを与えると。
それは至上の喜びで、何も迷う必要はなかった。
それなのに、どうして心が晴れないのだろう。
どうして、この少女と離れるのが惜しいのだろう。
「あの……さ……。何かあったら言ってね」
こちらの反応を伺うように彼女はちらりと視線を投げた。
「まあ、一応雇用主なわけだし」
照れくさそうに慌ててそれだけ付け足して視線を外す。
「ありがとうございます」
「本当に?」
「ええ」
本当に心の底から感謝していた。
「なんかさ、ジローさんのこと見てると時々不安になるの。何も言わずに消えちゃいそう
で」
一瞬体が強張った。
「ジローさんの事情も――本当はわかりたくないし、哀しいけど――わかる。でも、何も
言わないでいなくなったりするのは嫌」
彼女と視線がぶつかった。
「絶対嫌」
「心得ておきます」
少しだけわかった。
失いたくないのだ。この特区も、ここに住む人も。
なにより彼女が。
どんなに明るく美しい満月も、太陽なしに輝くことはできない。
よりそう二人。まるで太陽と月のよう。