君だけのために歌う
「正臣、寝ないの?」
「沙樹こそ」
正臣がちらりと腕時計を見ると時刻は早朝4時を回ったところ。5時半にこのカラオケボックスを出て、近くの駅から始発の電車に乗るつもりだった。
折原臨也に頼まれた用事を済ませるために東北まではるばるやってきた。昨日のうちに何とか携帯電話の通じるこの小さな町まで戻り、今日のうちには新幹線で東京に帰れるだろう。
「じゃあ歌わないの?」
沙樹がタッチパネル式のリモコンを手に首を傾げた。
「沙樹が歌いたいなら歌えばいいよ」
「別に。ただもう眠れないでしょ?」
少し眠れるかと思って立ち寄ったカラオケボックスだが、思った以上に寝るのに向かない場所らしい。何となく会話をして、その後2人ともぼーっとするだけの時間がしばし続いたところだった。
「じゃあさ……私のためだけに何か歌ってくれる?」
突然の言葉に正臣はきょとんとして、それから笑った。
「俺の真心がこもった歌を聞いたことがある奴は俺だけなんだけどな」
「なんか……寂しいね」
冗談めいた彼の言葉に沙樹は苦笑いをこぼす。
「でも、沙樹のために心をこめて歌うよ」
「本当?」
「ああ。だからよく聞けよ? 3日に1度しかない貴重なチャンスなんだからな」
正臣は道化師のような笑顔を見せる。その笑顔は彼の弱さであり、それを隠す仮面だった。でも、沙樹は彼のそんなところを愛おしいと思うのだ。
「ちゃんと聞くね」
コンセントを挿して、リモコンを操作する。流れてきたメロディは少し古い音楽だった。