君去りてのち
俺たちが誰も知らない間に、精市は消えた。
誰にも、一言も残さず、行く先さえも教えず。
弦一郎は看護婦に掴みかからんばかりの勢いで行く先を聞いていた。俺は弦一郎がこんなにも取り乱すのを初めて見た。
柳生も仁王も動揺していた。いつも何事にも無関心に近い彼らも、友人の、ことに精市のことに関しては平常心を保てなかったようだ。
赤也はうろたえ、誰かれかまわずに精市の行く先をたずねてまわった。ジャッカルは根気よく「俺も知らねえんだ」と繰り返し、丸井は「俺が知りてえくらいだよ!」と怒鳴りつけた。赤也は怒らなかった。ひたすらに精市を探すように、きょろきょろと、空になった病室を見回していた。
俺たちは誰も、俺たちの部長が、自分たちに一言の挨拶もせずに姿を消すなどということを信じなかった。
それは、精市がどれだけ真摯に自分というものをかけて俺たちと向き合ってきたかということを物語っていた。
精市の培ってきた信頼は、幸村精市という男へ向ける俺たちの信頼は、彼自身の行動さえも「そんなことをするはずがない」と否定してしまうほどに強かった。
精市は、誰にも何も告げずに、転校していった。
それだけが事実だった。
看護婦も監督も、「落ち着けば手紙を出すだろう」と言うだけだった。
俺たちは手紙を待った。
手紙はいつまでも来なかった。
俺たちは手紙を待ち続けた。
俺は弦一郎や、精市と帰ることがよくあった。たまには三人で帰ったし、そんなときにはどこから見つけるのか、赤也まで混じって、犬のように後になり先になり俺たちを見上げては会話に入ろうとしていた。
精市がいなくなり、俺と弦一郎が共に帰ることはなくなった。赤也だけはたまに現れて俺と帰ったが、昔のようにはしゃいではいなかった。
赤也は急激に大人びた。
精市の不在が、赤也をそうさせているのかもしれなかった。
「柳さん」
「なんだ」
一人で帰れば寂しい。
二人で帰れば、なお寂しかった。
「部長……その……」
「ああ」
「手紙……」
「届いたという話は聞かないな」
言いにくそうに口ごもるのを先回りしてやって、自分の言葉にぎくりとした。
これまで考えたこともなかった。ただ手紙を待ってはいたが、それが届くのは誰のもとにだ?担任にか?監督にか?弦一郎にか?それとも俺か?まさか赤也か?
精市は誰を選び、どんな手紙を書くのだろう。わからなかった。これまで一度も考えさえしなかった。
「手紙……届くんすかね……」
赤也は拗ねたように眉を寄せ、口を尖らせていた。宥めるために俺は答える。
「落ち着けば書くだろう」
「もう何ヶ月もたってるじゃないすか」
「精市はあれでものぐさだからな。きっと気が向かないんだ」
「……電話でも、メールでもいいのに」
「携帯をなくしたんじゃないのか」
「…………」
一つ一つに答えていくと、やがて赤也は黙った。納得したのかと見下ろせば、真っ赤な目で睨まれた。
真っ赤に充血した、張り裂けそうに感情の詰まった目で。
「分かってるくせに!」
言葉は鋭く、刃のように、喉元に突き付けられた。
「何がだ」
いけない、と思った。聞いてはいけない。
「分かってるくせに!分かってるくせに!ほんとは!ほんとは、部長は!いきなりいなくなったって、手紙だけ残したって、電話もメールもないって、何ヶ月も、……それがどういうことか、知ってるくせに!わ、わかってる、くせに!部長、部長が、ほんとは、ほんとはっ、し」
「赤也!」
頬を打つ必要はなかった。
口から飛び出す言葉を止めたいと思っていたのは、俺よりも赤也自身だったからだ。
赤也は涙をためた真っ赤な目で、ふうふうと肩で息をしながら、仁王立ちをして俺を睨み上げていた。きつく握られた拳は冗談のようにぶるぶると大きく震えていた。
わかっているくせに。
その言葉が、胸を切りつけるように痛かった。
幸村精市という男は、たとえ手術が成功するにしろ失敗するにしろ、その結果を俺たちに明かさないはずがなかった。
たとえそれが口にするのが恐ろしいことであっても、俺たちが耳にしたことを後悔するようなことであっても、精市はそれを自分の口から告げるに決まっていた。
それがなかったのなら。
それができなかったのなら。
手術の直後に「転校」だなんて、どんなに教師に聞いても転入先を教えてもらえないだなんて、どんなに待っても、誰にも、メールの一つもよこさないなんて、それがどんな意味を持つかなんて、
俺たちは誰一人、
分かっていないはずがなかった。
「…………」
「……なんとか言えよ!」
赤也は叫んだ。語気の荒さとは裏腹に、目は懇願を浮かべてさえいた。
赤也は真実を知っていた。赤也は真実を知りたくなかった。赤也は真実を知ってしまっていた。
「……精市は」
俺は目を閉じた。軽く息を吸った。声が普段と同じものであるようにつとめた。
「生きている。俺は手紙を待っている」
「嘘つくな!」
「精市は転校したんだ」
「……」
「だから、俺は手紙を待ち続ける」
幾度も幾度も。
思い出したようにポストに走り、郵便受けを開けては閉め、俺は精市からの手紙を待つだろう。
弦一郎も、精市からの便りを待つだろう。
そして俺たちは、これからの人生でふとした拍子に精市のことを思い出しては、彼の現在に思いをはせるだろう。
例えば十年後、俺たちは集まり、精市が今どこで何をしているかなんて話すのだ。地方のテニススクールのコーチをしているのでもいい、真面目に社会人として働いているのでもいい、遠い異国で悠々とバカンスを楽しんでいるのでもいい、俺たちの中で、永遠に精市は自由に駆け回る。
「……柳さん」
「うん?」
「俺にはそれはできない」
赤也の目はまっすぐだった。あと一回でも瞬きをすれば溢れてしまいそうなほど、涙をいっぱいにためていた。
「そうか」
「はい」
「それならそれで、いいんだ」
それがお前なら、それでもいい。
ただ俺は、精市の選んだ方法を、俺なりに手にとってみたんだ。
精市はさよならと言わなかった。