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ささいな言い合いだった。
 イギリスの目に熱が揺らいだ瞬間、それを合図にフランスはイギリスのあばら目がけて拳を衝き出す。反射的に防ごうとするイギリスの手は虚しく空を切り、フランスの四本の指の関節が揃って胴にめり込んだ。重く、そのくせ鋭い痛みが骨づたいに背中まで響く。よろけたイギリスはそれでも地面を踏みしめて強くその場にとどまった。反動で前のめりに数度咳き込む。乾いた音だった。
 会議が終わり、会議室の扉の前の廊下で、迎えの車を待っているあいだのできごとだった。議題はあちらこちらに散らばりながらも滞りなく進み、当面の心配ごとにもとりあえずかたがつきそうで、ちょうどきりのいいところで話の続きはまた明日、開放感あふれるいい気分での雑談にふたりは拳で亀裂を入れたのだった。ひとまずの帰路につこうとする上司や部下の視線がいっせいに二人に注がれ、何人かは裏声を作ってふたりを煽り、イギリスに睨まれては散っていく。
 イギリスはフランスが先制攻撃を仕掛けてくるのを好んだ。そのうえあばら骨はイギリスのもっとも抉られるのを好む部位のひとつだったから、今日は格別フランスの機嫌が良いのだった。
「フランス、てめえ、」
 痛えよ。と、そう言って扉によりかかるイギリスの表情は、憎しみのような形を作っていながらも歓喜の色を上手く隠せていなかった。へたくそ。つくづくおまえは役者に向かねえなあ、とフランスは思いながら、右の拳を撫でさする。ろくに肉のついていない薄いからだは、殴られた方だけでなく、殴った方も痛むようにできているのだった。ちょうどうまくイギリスの骨に当たったらしい第二関節は、肘の方まで振動を伝えて痺れている。フランスは左手で器用に袖口のボタンを外し、赤いシャツを肘までまくりあげ、ていねいに皮膚を、肉を、骨をなぞった。あーあ、こんなに痺れちゃったじゃない、と言うフランスの声は舌の上だけで転がされているかのようで、なのに目はどこか遠くを見るように歪められ、口元と目元のどちらもがわざとらしくにやついている。
 イギリスはフランスのにやつく目尻をきつく睨めつけて、「なにすんだよ」と決まりきった文句を吐いた。そのまま目尻に焦点を合わせて迫る。鼻と鼻が触れ合いそうになる。イギリスのみどりとフランスの青の目が、たがいを映しあってあおみどりに揺れていた。まばたきのたび、睫毛も触れそうな距離で。
 イギリスは口をひん曲げる。今にもやり返したくて、タイミングが欲しくてうずうずしている顔だ。癖の悪い右足がその瞬間を待ちきれずにざわついて、忙しなく床を叩く。
 フランスは笑う。
 フランスはイギリスが紳士的なふるまいのうちに隠している衝動を剥き出しにすることを好んだ。そのうえ足癖の悪さはフランスがもっとも好ましく思っている所作のひとつだったから、イギリスもやっぱり、今日は格別機嫌が良いのだった。
 イギリスの望みどおり、あらかじめ示し合わせていたかのようにフランスはその合図を出してやる。しらばっくれるかのように、無責任に、合わせていた目をそらす。それだけの単純な合図だった。あとはもう、イギリスの足がフランスの顔めがけて振り上がり、フランスはそれを避け、二人は笑い、怒号が飛んで、拳が飛んで、足が絡んで、縺れて、引き寄せて、殴って、殴って、殴って、蹴って、倒して、倒れて、押し付けて、押しのけて、絞めて、噛んで、睨んで、煽って、激しくつく息を奪い合うまですぐだ。廊下には鈍い衝撃音が響き、敷かれた絨毯は乱れて、二人は汗まみれになりながら、もう言葉も発さずに、満たされるまで接触する。

 滞りなく傷つけあいが終了し、イギリスとフランスはそれぞれ別の部屋へ帰って、ひとりで傷の手当をする。イギリスは左足を引きずりながら、フランスは真っ赤に脈打つ鼻を摘んで上を見ながらのたどたどしい帰路だった。部屋に帰り着くなり、ふたりはそれぞれ消毒液、包帯、止血剤、鎮痛剤を手当り次第に広げ、スーツを脱いで傷を見る。出血、打撲、引っ掻き傷、ずきずき、ひりひり、じくじく、赤、青、きいろ。そしてひとつひとつの傷をていねいになぞりながら、その傷を作った相手に浴びせるための暴言を選んで、口に出しながら処置をした。ちくしょう、あのやろう、いてえよ。ひとのことをなんだと思ってるんだ?
 手と足との応酬をふたりは思い描く。攻撃、防御、攻撃、防御、攻撃、防御、攻撃。攻撃で作った傷もあれば、防御でできた傷もふたりのからだには無数にあった。それらはふたりのからだで対になる。
 包帯で身体中を真っ白にしてしまってから、イギリスはフランスの、フランスはイギリスのつけた傷だけを持ち込んで、ふたりはそれぞれひとりっきりでベッドに入る。
 会議で話した内容を、二人ともすっかり忘れてしまった。ことばを滑らせるだけのやりとりなんて、そのまま帰るにはなんだか物足りないのだ。



 血まみれになり、毛並みの乱れてしまった上等な絨毯はふたりで折半して弁償することになった。イギリスの切った小切手は筆跡が興奮でふるえており、フランスの切った小切手は筆跡こそなめらかなものの端にかすかに血痕が付着していて、どちらもまったく穏やかなものじゃなかったけれど、それらは換金されて新しくきれいな絨毯になった。
 翌日、何事もなかったかのように敷かれたその絨毯の上を、イギリスの不自然に膨れ上がった左足が歩く。フランスの手に巻かれた包帯の影が落ちる。ちょうど反対方向から歩みを寄せた二人は、すっかり痕跡の消された事件現場で出くわして、にっこり笑って挨拶をした。会議室の扉をイギリスが開けて、手を怪我したフランスがそこを通るまで待っていてやり、フランスは足を怪我したイギリスの歩調に合わせて歩いてやり、スーツの端から同じ包帯の白を覗かせるふたりは仲良く隣の席に着く。
 つまりイギリスもフランスも、今日も格別に機嫌が良いのだった。
「保険下りた?」
「下りたよ」
「よく下りたなあ、今月何度目だ?」
「もうわかんねえなあ。いちばんの上客だから」
「おにいさんも保険会社変えよっかなあ……紹介してよ」
「知らねえよ、自分で見つけろよ、ばぁか」



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090731
作品名:good communication 作家名:iyd