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【サンホラ】"au revoir."

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呼ばれた気がする。強く、強く呼ばれたから、瞼を開けた。目の前を闇が占めていた。一瞬混乱して、目を瞬いた。だんだんと慣れてきた視界に広がるのは、見慣れた窓だった。外は相変わらず黄昏色に染まっている。
 先ほどまで、何かが僕に降り掛かっていた。とても熱かったから雨が降っていたはずだ。皮膚の勘違いであれば雪かもしれないけど、僕は外にいたはずだ。今の今まで、僕はここにいなかった。
 ああ。泣きさけびたい気持ちになる。倒れ臥すことも出来ずに両手で目を覆った。
 ここには何もない。狭間の世界には『風車』も『葡萄酒』もない。『賢者』も『天使』もいない。時間はない。春の暖かさもない。母が愛し、見せようとしていた蒼い海も碧い空もない。今あるのは、何もないしんとした部屋。詠い、読んだ物語の本棚があるだけ。僕はまた産まれなかった。
 頬が涙で濡れることはない。僕はまだ涙を経験していない。
 ぶらりと腕を下ろし、隣の扉を開く。ここは果てなく部屋があるが、僕が使うのは図書室か、寝室か、居間か、双児の人形を置いている部屋くらい。詩を詠っている間は一人で、部屋を行き来しようと思わない。彼女たちが帰ってくれば、話を聞くために居間に行く。
 同じつくりの部屋の中心。備えられたようなソファーの上にある人形へ向かう。眠っているようなあどけない表情は精巧に作られていて、本物の子供のようだ。けれども、二人の胸は呼吸をしない。
 ゆっくりと優しく手を伸ばす。冷たい彼女たちの頬に触れた瞬間、ぱちりと目が開く。
「Bonjour, monsieur.」
「Bonjour, monsieur.」
 揃った澄んだ可愛らしい声で、二人は挨拶する。彼女たちの挨拶を聞くことも、もう数え切れない。
 なぜ、僕は産まれられないのだろう。産声を上げることも、いまだに春を歩くことも出来ない。言葉なら知っているのに、この言葉にも、限りない愛があるというのに、生まれずして死んでしまう僕は愛しい母にさよならと口添えていくことも出来ない。
「ムシュー、泣いていらっしゃるの?」
 体温の灯った二人が近づいてきた。ヴィオレットとオルタンスは心配そうに背中を撫でてくれる。
 刹那、とても残酷なことを思った。
 さよならを言いたかった。そう言い添えていくだけで、母は愛を感じ取ってくれるのだ。言いたくても、口に出せない、一度も言ったことがない言葉。せめて、その言葉を唇に灯すことを許して欲しかった。
 しゃがんで人形を抱きしめる。それでも僕の方が大きいから、姫たちは不思議そうに見上げてくる。ああ、かわいい僕の姫君たち。お願いがあるんだ。ただ一言だけだが、聞いて欲しい。二人は驚いて、それでも了承してくれた。


「さようなら」


 悲鳴をあげた気がした。すぐに俯いてしまわなかったら叫んでしまいそうだった。とてもとても悲しくて、自分が間違えた言葉をいったとわかる。
 彼女たちが抱きついてくる。どうしたのだろう。この悲しい言葉で、彼女たちも悲しくなったのだろうか。
「ああ、ムシュー。ごめんなさい」
「ごめんなさい、ムシュー」
 驚いた。双子が謝る理由がない。
「とても、とても悲しいの」
「お願い、もう言わないで、ムシュー」
「わがままよ、だけど」
「もう言わないで。きっと、貴方も傷ついてしまうわ」
 動けなくなる。顔が強張るのがわかった。
 愁うように涙を流し始めたオルタンスと、寂しそうに微笑んでいるヴィオレット。二人を腕に抱いたまま、僕はなんと言葉を掛けていいのか分からなくなってしまった。そんな僕に縋りつくように、さらに抱きしめるように、二人はしがみつく。
「愛しているわ、ムシュー」
「愛しているの、ムシュー」
 今度こそ慟哭した。
 紫陽花を泣かせてしまった。菫に慈しませてしまった。僕の涙の流れない僕は、叫ぶだけしかできない。
「ごめん、二人とも。……ごめん」
「違うわ、ムシュー」
「謝らないで、大丈夫なの」
 なんと愚かなことを言ったのだろう。
 僕は今、これほどに僕を思ってくれる二人を、粗雑で酷い言葉を使って傷つけた。彼女たちが優しいのをいいことに、つけ込んで甘え簡単に裏切った。
 泣けない僕は同時に笑うことが出来ない。だが彼女たちが謝らないで欲しいと言うのなら謝罪しない。
 だから、どうすればいい、それでは彼女たちに与える言葉がなくなってしまった。生まれていない僕は、圧倒的に語彙が足りない。何と言えばいい。どうしたら彼女たちは幸せになる。なんの言葉を与えたらいいのだろう。
 双児の人形を抱きしめて、奥歯を噛み締める。誰か、名前を与えてくれ。

作品名:【サンホラ】"au revoir." 作家名:十色神矢