last night, first night
妹の手を握り締めていた。
妹は自分より頭ひとつぶん小さかったから、これは夢なのだ、とウクライナにはすぐに分かった。けっして生きやすくはなかった、ましてや幸せだったかすら分からなかったけれども、なにもかもが今よりはずっとずっと単純だったころの夢だ。ウクライナは髪を伸ばしていたが、妹はまだ肩あたりで切り揃えている(ウクライナがその役割を担っていた)。髪先は凍って、ときどきは吹く風に揺らされた。降りしきる雪の中ですら妹のてのひらはひんやりと冷たくて、あたためようと指を絡めてもこちらのほうがかじかむばかりで、自然心配になったウクライナは小さな手を軽く引いた。
「ね、帰りましょう、ベラルーシ」
「や」
簡潔極まりない拒否の言葉。それでもう殆ど理解出来てしまうし、それ以上の情報は必要なかった。妹は弟のことについて考えている。こうなると妹はてこでも動かない。実際、そんな出来事は何回もあった。ふらりと出かけたまま何日も戻らない弟を、もしもウクライナが手を引かなければ妹はいつまでもいつまでも暖を取ろうと凍て付いたみたいに蹲ったまま待ち続けることだろう。しかも彼女のかたくなさは、待つ、というだけには止まらないのだ。
(困ったな)
とウクライナは思った。もっともそれほど深刻にも思わなかった。夢だと分かっていたから。現実でなければ、妹がいつまでも待ち続けることは出来ないのだから。夢の中でも肌を凍らせようとする風、身を切るような寒さが普段通りだったのには閉口したのだけれど。
ちらりとうかがった妹の、視線はまっすぐに吹雪の向こうを見据えている。それでウクライナははじめてふたりを取り巻いている吹雪に気付いた。恐ろしい程の咆哮が耳朶を打ち、見上げれば大きな雪片が睫毛に取り付いて凍らせているというのに。振り向いて確認した背中には燈のともった丸太小屋。夢の中であるとはいえ、帰る場所はきちんと用意されている、というわけだ。だからこそ先程のウクライナも帰ることを軽々しくほのめかしたんだろう。
再び妹に視線をやる。足元には明らかにサイズの大きなオーバーシューズ。たぶん、弟からのおさがりだ。古びてはいるけれども、何枚も何枚も重ねられているせいであたたかそうだとわかるペチコートやスカート。コートとマフラーのせいで上着はよく分からない。赤くかすれた頬。なのにむしろ血の気が抜けたような青い唇がゆっくり動いた。
「 」
ウクライナはあえてその言葉を聞き取ろうとはしなかった。聞かなくとも、妹が誰を呼んでいるかなんて、分かりきっていた。
「 、 、 ――」
それに彼女は、その言葉を今だけは聞きたくなかったから。
*
ぱちり、と目を開く。しばらくすると、暗闇の中でも覚えのある天井が脳裏に映し出されて、ウクライナはすこしだけ安堵する。現実ではないと確信していたとしても、夢うつつの境を漂っている時間は兎角不安になるものだ。
だから声が聞こえたとき、彼女が一瞬ふるえてしまったのも無理からぬことだった。
「……兄さん」
呼び名が闇の中に零れ、紙切れのようにゆっくり空を漂う。吐息は潜められていない。すぐ隣に横たわっている無防備な身体から探り当てた手のひらはあたたかく、力を得るには十分。余韻が消えてしまわないうちに絡めた指に力を込めて、消えてしまわないうちに声を掬い上げた。
「なぁに、ベラルーシ」
「あんたは、呼んでないから」
「あら」
にべもない返事がすぐに返ってきた。とすればかなり長い間にわたって闇の中でまんじりともしないで過ごしていたらしい妹の表情を、ウクライナはなめらかなてのひらの感触を楽しみながら想像した。唇を噛んでいたのだろうか。眉間に皺は寄っていただろうか。目尻に涙を貯めはしなかっただろうか。最後の質問を危うく口にしそうになったのも我慢したあと、もうしばらくの沈黙ののちに気のせいかすこしばかり和らいだ声が、
「あんたは、呼んでないから」
「さっきはね」
でも、夢の中で言ってたわ。『姉さん』って。
(うん、嘘だけど)
嘘、というよりもただの願望を込めた台詞に、しかし妹は分かりやすく息を呑んだ。こんなところがなんとも可愛らしいと思う。姉と床を共にしていてすら、彼女は心のすべてを弟に捧げ、世界には弟と自身のふたりだけだと信じている。狂信というにはあまりにも脆く儚い想いだ。
だからウクライナは笑う。妹のなかに、自分の笑顔の居場所があると分かっているから。いつか妹からその笑顔を奪ったときに求めて欲しいと願うから。彼女が求めずにはいられないと知っているから。
弟がベラルーシの想像する世界に生きることはないと確信しているから。
「ね、ベラルーシ」
「なに」
「どんな夢だったのか、お姉ちゃん聞きたいな」
妹に向きなおったところで、彼女は思い出したように囚われた指を抜け出させようともがき始めた。それも止まったころ、またもや冷たくなりはしたもののどこか弱弱しい声が耳をくすぐった。暗闇のなかの表情はよく見えないままだった。
「兄さんのマフラーのこと」
「うん?」
「だから、姉さんが――」
「えっと?」
「姉さんは、わたしには何もくれなかったけど」
「ああ、お姉ちゃん思い出した!!」
感覚を麻痺させようと迫る吹雪の中、身体を寄せあって暖を取ろうとする三人のこども。弟に与えたぼろぼろのマフラー。あれから欠かさず彼の首元に何度も代変わりしながらとどまりつづけているそれに、妹はいつから意味を覚えていたんだろうか。つまりここにもひとつ、ウクライナの跡が残されているというわけだ。
身を乗り出すようにして吐息が触れる距離まで近づいて、うつむいたままの妹が気づかないのをいいことに指を絡めなおして、続きを促すようにうなずいてやる。姉の不埒な動きに気付いているのかいないのか、冷えきった声はそのまま言葉をぎくしゃくと紡ぎつづけた。
「姉さんは、私には何もくれなかったけど」
「うん」
「だから、あのとき姉さんは兄さんには、」
「だって、見返りがなかったもの」
「そんなに欲しかったの、継承権」
「うん!」
ベラルーシが目を閉じ、ため息のあとにまたもや沈黙、というよりも静けさが訪れる。その中でも吸って吐いてのリズムが自然に揃えられていくのがおかしくて漏れたくすくす笑いの響きに反応してか、小刻みに震える瞼目がけて軽くキスを落とせば、闇の中でも瞳が大きく見開かれたのが分かった。
「――ね、姉さん?!」
だから今度は口を封じ込めた。きれいな歯並びの奥をなぞって、あたたかい口の中をゆっくりと味わう。炎症を起こした跡を舐める度に肩が小さくはねるのが面白い。やがて息が切れたらしい妹、いつまで経ってもキスの最中に呼吸をすることを覚えられない妹はウクライナを今日はじめて押しのけ、しかし手はつないだまま、じっと物言いたげな視線を注いでくる。力の抜けた指から手を首に回す。
「今もらったよ、見返り」
「え」
「だから、マフラーの見返り。明日編んで上げるわ、ベラルーシ」
「………………」
「ベラルーシ?」
「まったく。……まったく、もう」
妹は自分より頭ひとつぶん小さかったから、これは夢なのだ、とウクライナにはすぐに分かった。けっして生きやすくはなかった、ましてや幸せだったかすら分からなかったけれども、なにもかもが今よりはずっとずっと単純だったころの夢だ。ウクライナは髪を伸ばしていたが、妹はまだ肩あたりで切り揃えている(ウクライナがその役割を担っていた)。髪先は凍って、ときどきは吹く風に揺らされた。降りしきる雪の中ですら妹のてのひらはひんやりと冷たくて、あたためようと指を絡めてもこちらのほうがかじかむばかりで、自然心配になったウクライナは小さな手を軽く引いた。
「ね、帰りましょう、ベラルーシ」
「や」
簡潔極まりない拒否の言葉。それでもう殆ど理解出来てしまうし、それ以上の情報は必要なかった。妹は弟のことについて考えている。こうなると妹はてこでも動かない。実際、そんな出来事は何回もあった。ふらりと出かけたまま何日も戻らない弟を、もしもウクライナが手を引かなければ妹はいつまでもいつまでも暖を取ろうと凍て付いたみたいに蹲ったまま待ち続けることだろう。しかも彼女のかたくなさは、待つ、というだけには止まらないのだ。
(困ったな)
とウクライナは思った。もっともそれほど深刻にも思わなかった。夢だと分かっていたから。現実でなければ、妹がいつまでも待ち続けることは出来ないのだから。夢の中でも肌を凍らせようとする風、身を切るような寒さが普段通りだったのには閉口したのだけれど。
ちらりとうかがった妹の、視線はまっすぐに吹雪の向こうを見据えている。それでウクライナははじめてふたりを取り巻いている吹雪に気付いた。恐ろしい程の咆哮が耳朶を打ち、見上げれば大きな雪片が睫毛に取り付いて凍らせているというのに。振り向いて確認した背中には燈のともった丸太小屋。夢の中であるとはいえ、帰る場所はきちんと用意されている、というわけだ。だからこそ先程のウクライナも帰ることを軽々しくほのめかしたんだろう。
再び妹に視線をやる。足元には明らかにサイズの大きなオーバーシューズ。たぶん、弟からのおさがりだ。古びてはいるけれども、何枚も何枚も重ねられているせいであたたかそうだとわかるペチコートやスカート。コートとマフラーのせいで上着はよく分からない。赤くかすれた頬。なのにむしろ血の気が抜けたような青い唇がゆっくり動いた。
「 」
ウクライナはあえてその言葉を聞き取ろうとはしなかった。聞かなくとも、妹が誰を呼んでいるかなんて、分かりきっていた。
「 、 、 ――」
それに彼女は、その言葉を今だけは聞きたくなかったから。
*
ぱちり、と目を開く。しばらくすると、暗闇の中でも覚えのある天井が脳裏に映し出されて、ウクライナはすこしだけ安堵する。現実ではないと確信していたとしても、夢うつつの境を漂っている時間は兎角不安になるものだ。
だから声が聞こえたとき、彼女が一瞬ふるえてしまったのも無理からぬことだった。
「……兄さん」
呼び名が闇の中に零れ、紙切れのようにゆっくり空を漂う。吐息は潜められていない。すぐ隣に横たわっている無防備な身体から探り当てた手のひらはあたたかく、力を得るには十分。余韻が消えてしまわないうちに絡めた指に力を込めて、消えてしまわないうちに声を掬い上げた。
「なぁに、ベラルーシ」
「あんたは、呼んでないから」
「あら」
にべもない返事がすぐに返ってきた。とすればかなり長い間にわたって闇の中でまんじりともしないで過ごしていたらしい妹の表情を、ウクライナはなめらかなてのひらの感触を楽しみながら想像した。唇を噛んでいたのだろうか。眉間に皺は寄っていただろうか。目尻に涙を貯めはしなかっただろうか。最後の質問を危うく口にしそうになったのも我慢したあと、もうしばらくの沈黙ののちに気のせいかすこしばかり和らいだ声が、
「あんたは、呼んでないから」
「さっきはね」
でも、夢の中で言ってたわ。『姉さん』って。
(うん、嘘だけど)
嘘、というよりもただの願望を込めた台詞に、しかし妹は分かりやすく息を呑んだ。こんなところがなんとも可愛らしいと思う。姉と床を共にしていてすら、彼女は心のすべてを弟に捧げ、世界には弟と自身のふたりだけだと信じている。狂信というにはあまりにも脆く儚い想いだ。
だからウクライナは笑う。妹のなかに、自分の笑顔の居場所があると分かっているから。いつか妹からその笑顔を奪ったときに求めて欲しいと願うから。彼女が求めずにはいられないと知っているから。
弟がベラルーシの想像する世界に生きることはないと確信しているから。
「ね、ベラルーシ」
「なに」
「どんな夢だったのか、お姉ちゃん聞きたいな」
妹に向きなおったところで、彼女は思い出したように囚われた指を抜け出させようともがき始めた。それも止まったころ、またもや冷たくなりはしたもののどこか弱弱しい声が耳をくすぐった。暗闇のなかの表情はよく見えないままだった。
「兄さんのマフラーのこと」
「うん?」
「だから、姉さんが――」
「えっと?」
「姉さんは、わたしには何もくれなかったけど」
「ああ、お姉ちゃん思い出した!!」
感覚を麻痺させようと迫る吹雪の中、身体を寄せあって暖を取ろうとする三人のこども。弟に与えたぼろぼろのマフラー。あれから欠かさず彼の首元に何度も代変わりしながらとどまりつづけているそれに、妹はいつから意味を覚えていたんだろうか。つまりここにもひとつ、ウクライナの跡が残されているというわけだ。
身を乗り出すようにして吐息が触れる距離まで近づいて、うつむいたままの妹が気づかないのをいいことに指を絡めなおして、続きを促すようにうなずいてやる。姉の不埒な動きに気付いているのかいないのか、冷えきった声はそのまま言葉をぎくしゃくと紡ぎつづけた。
「姉さんは、私には何もくれなかったけど」
「うん」
「だから、あのとき姉さんは兄さんには、」
「だって、見返りがなかったもの」
「そんなに欲しかったの、継承権」
「うん!」
ベラルーシが目を閉じ、ため息のあとにまたもや沈黙、というよりも静けさが訪れる。その中でも吸って吐いてのリズムが自然に揃えられていくのがおかしくて漏れたくすくす笑いの響きに反応してか、小刻みに震える瞼目がけて軽くキスを落とせば、闇の中でも瞳が大きく見開かれたのが分かった。
「――ね、姉さん?!」
だから今度は口を封じ込めた。きれいな歯並びの奥をなぞって、あたたかい口の中をゆっくりと味わう。炎症を起こした跡を舐める度に肩が小さくはねるのが面白い。やがて息が切れたらしい妹、いつまで経ってもキスの最中に呼吸をすることを覚えられない妹はウクライナを今日はじめて押しのけ、しかし手はつないだまま、じっと物言いたげな視線を注いでくる。力の抜けた指から手を首に回す。
「今もらったよ、見返り」
「え」
「だから、マフラーの見返り。明日編んで上げるわ、ベラルーシ」
「………………」
「ベラルーシ?」
「まったく。……まったく、もう」
作品名:last night, first night 作家名:しもてぃ