聞こえなくなるくらい 私にあいしてると言ってきかせて
エースは瀟洒な身なりと艶めいた仕草で女たちが男たち凭れかかり、あるいは連れ立って出て行くのを何とはなしに見つめていた。広間の隅でちびちびと酒を煽っているエースの傍らでは、先程までサッチが手にしていたグラスが露を滴らせている。本人はあちらこちらで知った顔が疎らになってくると、侍らせていた女二人を連れてさっさと出て行ってしまった。悪役面でにやりとお前も混ざるかと言われて蹴りを返したのがつい先程だ。たいして痛くもないくせに痛いと喚いて女にしなだれかかり、眉を寄せるエースに揶揄するような顔でおっといけねぇ、お前を誘ったことがバレたらマルコに殺されると嘯いてひらひらと手を振ったサッチは本当にいい性格をしているとエースは嘆息した。
当のマルコと言えば、ジンベエ相手に情報収集に余念がない。白ひげが新たにファミリーに加わったものたちの為に催したいわばお披露目パーティーのようなこの場は、確かに大事な情報交換の場ではあるが、今はたいして大きな抗争もないはずだがなぜと思えば、笑ってジンベエの肩を叩いている様子になるほど、そういえばジンベエは二月ほどこの街を離れていたなと納得した。ジンベエとは古くからの馴染みらしく、人前であれほど打ち解けた表情をするマルコは珍しい。
まぁ、それは何も自分だけの感想ではないらしいと、エースは二人の周囲をぐるりと見渡してまったくと息を吐き出した。まだ広間に残っている女たちがあちこちでくすくす笑っているのがわかる。そのマルコ好みの大人っぽい雰囲気の女性達もまた、マルコの馴染みの女たちなのだろう。
だいたい、とエースは不機嫌にグラスを回した。マフィアのくせして三つ揃いスーツを嫌味に着こなす男に、エースは反則だと思うのだ。粗忽な無法者でありながら、その出で立ちに加えて紳士的な態度まで様になってしまう。女たちがほっとかない訳だ。逆に、エースはネクタイなんてものは極力したくないと思う。息が詰まって窮屈でしかない。スーツの上着も脱ぎ捨ててシャツの釦だって外したい。けれどそんなことをすればあの男は忽ち眉を寄せて、小物みたいな真似をするなと言う。歩み寄って以外にも綺麗な指先で一つずつ釦を留め、ネクタイを締め、上着を正す。そしてそんなだらしない人間に育てたつもりはねェよいとつまらなそうに呟くのだ。その指が全く反対の挙動を示すことを知っているだけに、そんなことをされるとエースは堪らなく居たたまれない思いをすることになる。同じようでいて全く別の思惑を器用に体現する指先は厄介以外のなにものでもなく、そんな所在ない気持ちにさせられるくらいなら身形くらいどうとでもしようと思う。でなければいつかこらえ切れずにその唇にむしゃぶりついてしまいそうだ。
知らず鳴った喉に、エースは弱ったように苦笑した。
見つめた先で視線が絡み、苦笑して片手を挙げると、マルコはジンベエに何事か耳打ちし肩を叩いてその場を離れた。途中女たちの熱い視線を涼しい顔ですり抜け、エースのもとへとやって来たその手には今日何杯目か知れないウィスキーがある。
「どうしたよい、今日は随分大人しいじゃねェか」
もう酔ったかとからかうように開いた唇に吸い寄せられた視線を慌てて上げる。冷えた目を見てほうと安堵の息を吐くと、その海のような瞳が不思議そうにくるりと瞬いた。それに何でもないと首を振る。
「別に、こんな気分のときだってたまにはあるだろ」
「へえ?」
生意気だとマルコが笑う。
「あんたは相変わらず女にモテるな」
「妬いたかよい?」
「まさか」
昔からだろと笑ってエースは手中のグラスを傾けた。カランと耳に心地良い音を奏でた氷に笑いたいような気持ちになる。
暫く涼しげな音を立てて回る氷を見つめていると、横顔に視線を感じて顔を上げた。その視線の先にはもちろんマルコがいて、何となく落ち着かない心持ちになる。視線が定まらずに、マルコのピシリと着こなされたスーツやらネクタイやらを上滑りしていく。ああこのタイは昔プレゼントしたものだ、使ってくれてんだなとか、女物の香水の匂いにまた抱きつかれてたなとか、けど女には紳士に振舞いたがるマルコはきっと優しく抱きとめたんだろうなとか、この場に関連性のあるようでない事柄に思考を飛ばしつつ平静を保とうとして、それは不意に持ち上がった手に呆気なく無駄にされた。
さらさらと指先が髪をすり抜けていく。顔にかかった緩い癖毛をかき上げる優しい仕草は昔から何一つ変わらない。
エースはその手を叩き落としたいような衝動を噛み砕くのに随分と苦労した。たとえ今その手を払ったとしても、きっとマルコは愉しげに唇を歪めるだけだろうけれど。
エースが仕方なしにまた視線を上げると、くいとタイを引かれて身体が半歩分マルコに近寄る。はらりと緩い照明に漂う金髪がエースの黒髪に触れた。
密度の増した空間の中、耳元で掠れた声がくつりと笑った。
それにしちゃァ熱い視線だったよい。焦げるかと思った。
耳朶から首筋をいやらしく撫でていった手の平と、嫌に熱の篭った吐息が耳に触れた途端、そこから全身に震えが走って肌が粟立った。勢いよく身を離した先でエースは一瞬前とはがらりと様相を変えた青い瞳と出会う。それは情欲の炎を燈してエースを射竦めた。つり上がった唇からはもうエースを追い詰める言葉しかきっと零れない。
やはりどう考えても、厄介でしかない男だ。
引かれて僅かに乱れたネクタイをマルコの指が撫でて整えていく。
エースの動揺を確実に理解していながら、ストイックな笑みを口元に乗せる男はやはりまだまだ自分の手に負えないということを、エースは今宵も再確認する破目になるのだった。
作品名:聞こえなくなるくらい 私にあいしてると言ってきかせて 作家名:ao