【ポケモン】うつせみ
物の少ない部屋だな―――。
彼の部屋に入って、最初に抱いた感想はそれだった。ベッドのシーツやカーペットなどは暖色系でまとめられている。母親が選んだのだろうか、所々に散りばめるようにして赤色の小物が置かれている。アナログテレビに繋がれたままの三色コードが、素朴な色合いのファミコンに繋がっていた。小棚にはペン立て代わりのガラス瓶の中に何本かの鉛筆とハサミ、それから定規が立てられている。最後に使ったのはいつか分からないが、机の上に先が丸くなった鉛筆と消しゴムが転がっていた。広げられたままの地図に走り書きがされている。急いで書いたのか妙にクセのある字になっており、はっきり読み取ることができない。
ダークライ。
かろうじてその五文字だけが読み取れた。その後ろにも何か書かれていたようだったが、消しゴムで消されておりその内容を知ることは叶わなかった。
地図の横に積み重なった雑誌は全て三年前の日付だった。棚には買い足されることがなくなった雑誌が、机に重ねられている分の隙間を空けて並んでいる。古いものの中には時間が経ちすぎて黄ばみ始めているものもあった。中でも一番読み込まれているのは参考書ほどの厚さもあるマップだった。何度も開かれた所為かすっかり表紙が反り返っている。手に取って捲ると、一番道路からトキワシティに向かう辺りのページが、糊づけされていた部分が弱くなってぱくりと割れていた。
いつか自分も似たようなことをしていたのを思い出す。旅立ちが許される日までずっと、いずれ通るであろう道に思いを馳せていた。
母親がよく掃除や空気の入れ替えをしているのだろう、埃の臭いはしない。全体的にきちんと整理されてはいたが机の辺りはそれなりに散らかっているし、特に生活感がない風にも感じられない。
それでも何か抜け落ちたように、この部屋はぽかりと空虚を抱えていた。
春の暖かな陽気の中でもどこかしらに影を帯びているように感じられた。本棚が、椅子が、カーテンが落とす影が酷く濃い。
ここに主の気配は残っていない。
机にもう一度視線を落とし、溜息をつく。何か彼に繋がる手がかりになるものがあればと思ったが、あったのはそこを目指したのかも分からない地図だけだった。カントーとジョウト、二つの地方をまとめたもの。ナナシマまで網羅している地図は広域な分簡略化されていたし、目立った書き込みもなかった。あるのはポケモンの名前なのかよく分からない単語ひとつきり。
ダークライ、……ダークライ。何度か胸の中で反芻する。どこかで聞いた気がするがはっきりしない。カントーかジョウトに纏わる何かなのだろうか。
眉を寄せる。知人に聞いたか。少なくともカントーではなかったのは覚えている。ここに纏わる伝説は三鳥と始祖のものだった。それを、自分は彼から直接聞いていたのだから。
三鳥のことに触れ、始祖のことに触れ、最後にその始祖からつくられた生き物のことに触れてから彼はひとりごとのように続ける。かつて人間は自然を神とあがめ、彼らをその使いと尊んだ。それなのに文明人と言われる人間は自然破壊だの自然保護だのとさわぎたてる。―――いつから人間は神を保護する立場に成り上がったんだろうか、と。
少年の呟きに自分は何と答えたのだっただろうか。
落ち着き払ったあの目に、きっと今なら答えられる気がした。話してあげたいと思う。彼とそう歳の変わらない少年が、自然そのもののような生き物にぶつかっていったことを。それはもしかしたら彼の望む答えにはならないのかもしれないけれど。
暫く目を閉じていた。瞼の裏に、少年の背中を思い出していた。
―――窓から吹き込んだ風に、開いたままだった雑誌のページがぱらぱらとまくられる。シンオウの眠り病についての記事が、A4サイズのページを何枚も使って書かれていた。印刷された文字の中に、ちらほらと走り書きにあった単語が混じる。
だが青年がそれを見ることはなかった。だからいつか少年が見せていた気鬱の理由を知ることもなかった。黒い夢の話は暫し、本と一部の人間の頭の中だけに収められていく。
少年はもう暫し、夢に付き合い続けていくようだった。
作品名:【ポケモン】うつせみ 作家名:ケマリ