既婚者と参列者
既婚者と参列者
真っ青と真っ白と新緑のコントラスト。イギリスにある小高い丘の上、広めの土地に敷き詰められた白い石の彫刻がどれだけあるかなんて不毛なことはしない。
イングランドのとある田舎町、そこはアーサーとエリザベスの故郷だった。家が隣同士で、家族ぐるみでよく付き合い、お互い兄妹のように育った場所。田舎といってもそれなりに大きな街はすぐそこで、この丘からいつも見渡せた。ふもとには二人が通った大学もある。
ここへ来る途中、普段まったく思い出すことがなかったはずなのに、脳裏にたくさんの思い出が浮かび上がった。
嫌な記憶も残る土地でアーサーの心の内をいつも黒く染め上げていたのに、結局彼女に辿り着いて一瞬にして景色は変わるのだ。ドロドロして淀んだヘドロのようなものから、この澄み渡った空のように。
今にも後ろからこの道を駆け下りてくる小さな彼女が見えそうな気がした。
だが彼女はもう地中で眠っていて、まさか、そんなことがあるわけないのだけれど。
「神の御加護あらんことを、そしてどうか、平穏な眠りに。アーメン」
簡易的な田舎教会の牧師の祈りの声とともに一同が胸元に飾られた銀の十字架を握る。
彼女の職場の知り合いや大学の同級、その多趣味が故に友人も多く、逆に親戚は少ない。
アーサーの友人や同級も、彼女ほどではないにしろ黒服の中に参列していた。
冷たい乾いた風が吹く。彼女の友人だろうか、一人がウッと泣きだすと周りもつられたようにハンカチを手にとり目元に当てた。
アーサーは静かに真新しい石の彫刻を見下ろした。エリザベスと刻まれた、その石を。
「アーサー、そろそろ」
あれから何十分、いや何時間経ったのだろう。
ぽつぽつと周りの参列者達が引き返して行く中、アーサーだけは一歩も動かずに石碑の前に立っていた。
彼女の友人や牧師は既に後にしている。佇むアーサーに声を掛けるのは憚られたのだろうが、何人かは簡易に挨拶を済ましそこを後にした。「気をたしかにね」。そんな今更、と後ろで聞いていたフランシスは心の内で肩を竦めた。
アーサーはこの時よりずっと前から腹をくくっていた。活発な性格で忘れられがちだが、エリザベスが本来身体が弱い側の人間なのだということを彼はよく知っていた。だから彼女に不治の病が見つかったとき戸惑いはしたものの、すぐに冷静になり、エリザベスの支えになるよう努力してきた。その頃から既に、彼の中でカウントダウンは始まっていたというのに。
ここに来る途中、いっそ泣いてくれたらいくらでも慰めたんのになぁ、とアントーニョは参列の靴音に隠すように呟いた。
まったくもって同感だ。少しでも弱音を吐けばいいのに、この強がりはエリザベスの病の発覚から今の今まで一度も弱音など吐かなかった。ただいつも通りに悪態をつき、彼女を目に入れた瞬間には本当に幸せそうに笑うのだ。笑って「ベス、こっち来いよ」と手招きして彼女を抱きよせる。彼女は幸せそうに腕の中から彼を見上げて、ほほ笑む。ああお熱いことで、と冷やかすと、アーサーはさも当然と言わんばかりに「当たり前だろクソ髭目腐ってんのか」と二言以上多い暴言を吐き捨て、エリザベスは声を出して笑う。酷い、と俺はふざけてハンカチを噛む真似をすると、最後にはその場にいた全員が笑う。
ああどうしよう、お兄さんちょっと泣きそうだ。今まで全然泣く気なんて起きなかったのに、君の主人を差し置いて俺が泣いてどうするよ。笑っちゃうだろ、なぁ?
もう一度声をかけようとしたのに、このままじゃ鼻声しか出ないじゃないか。
「アーサー、そろそろ帰ろ。冷えてまうで」
アントーニョが俺とアーサーの背中の間に立った。お前、今日やたら空気読むよね。
その隙になんとか平静を保ち、上を向いて空を仰ぐ。ああ、俺の出ちゃった涙たちよ、今だけは涙腺に戻ってくれ。
ぴく、と反応を見せても動かない背中に、アントーニョはもう一度声をかけた。
「…アーサー。また来ればええやろ?これ以上は身体に悪いで」
「…わかってる。悪かった、付き合わせて。フランシスも」
漸く振り返ったアーサーの顔は、これまで見たことがないくらい、疲れ果て、乾いていた。
ああ、俺達は泣いてる場合じゃないんだ。こいつを引き止めなきゃいけない、多分エリザベスが俺達に残した重要な役割があるんだ。何十年振りにこの丸い頭に触れる。
「行くか。今日は特別にお兄さんがあったかいスープ作ってあげるよ」
「ん」
「俺のトマト使ったってやー」
「んじゃミネストローネかね。いいだろ?坊ちゃん」
「…おう」
目を細めるそれは、まだ取り繕ったものなのだろう。
アントーニョは土産のトマトを出しに行くと言って行きかけ、フランシスもまたゆっくりと歩き出す。
続いて進みかけた足をぴたりと止めて、アーサーは振り返った。
「…また来るよ、ベス」