雨の日臨静
雨が降っていた。
バケツをひっくり返したような、とでも言えばいいのか、どしゃどしゃと叩きつけるような雨だ。
そんな中で。
男が一人、佇んでいる。
平和島静雄。
此処池袋では、最強とまで恐れられている人ならざる膂力を持った男だ。
その男がたった一人きりで傘もささずにただ、突っ立っていた。
時は昼。
陰鬱な昼下がり。
陽の光暗く、遠く。
辺りを灰色に染めている。
アスファルトにあたって跳ね返った雨水が、スラックスの裾を汚すのも厭わず、静雄はただ、動かずにいる。
その場所で。
雨に打たれて。
咥えられたままの煙草の火は、疾うに消えて、凍えるような底知れなさだけが、ただ、其処にあると言うのに。
ベルトも抜かれ、チャックも緩められたズボンのポケットにだらしなく両手を突っ込んで、ぼんやりと何処とも知れぬ何処かを見ていた。
ボタンの弾け飛んだベスト、肌蹴られたカッターシャツの胸元からは、抜けるような白い肌が覗き、微か血の滲む幾筋かの線は多分鋭い刃物で傷つけられた痕だったろう。
それが誰の仕業かなどと。
そんなことは本当に。
今更なのだ。
「くそっ」
こもるような舌打ちは、口の中で。
それなりに人通りのある街角で、一種異様とも言える様相で立ち竦んでいると言うのに誰も彼もが彼にはまるで、気付かないかのようにして、通り過ぎていく。
雨は彼の痛んだ金の髪を嬲り、白い頬を伝って胸元へ滑り込んだ。
その冷たさにも、彼は何の反応も見せず。
鼻先に引っ掛けられたサングラス越しの薄茶色の瞳は、目の前の雨でさえ、認識してはおらず。
脳裏にはあの男の声だけが響いている。
弾むような。
からかうような。
楽しげな笑い声。
『あはは。他愛ないね?シズちゃん』
そういってチェシャ猫のごとく口端に笑みを刻んだのは、静雄にとって宿敵とも言える相手。
それでいてそれだけでもなく、端的に表せる感情だけでは、彼に対する心を明確にすることさえ出来ないあの男、折原臨也だった。
『シズちゃん』
そもそもが静雄をそんなふざけた呼び名で呼ぶのはあの男だけだ。
心は複雑に絡んで、汚濁のように進む。
つまり静雄の肌に傷をつけ、静雄の服を、今のような状態にしたのはあの男なのだ。
静雄とて大人しくされるがままだったわけではない、相手の代償は右頬に決まったストレートと、抉るようにして投げつけられた折れた傘。
そんなもの、あいつはきっとへとも思っていないだろうことは、わかっていたけれど。
静雄の目に雨は届かず、また静雄の耳には街の喧騒さえ遠い。
「ちくしょう」
また一つ舌打って。
こもって緒の知る言葉に、想像の中の・・・否、少し前まで実際に目の前にあった、過ぎるほど整った男の顔が歪んだ。
この肌に触れていたのは、男の手ではない。
冷たい金属の切っ先。
この耳に注がれたのも、愛を紡ぐ何かでなんてなくて。
だけど。
「俺はそれでも、構わなかっただ・・・」
掠れたような声で一言。
そっとそれだけ呟いた。
静雄はゆっくりと目を閉じる。
灰色の空から落ちてきた雨粒が瞼を叩いて、つ、と頬を滑り落ちていく。
それはあたかも、涙のようで。
あいつは、笑っていた。
ただ、笑って。
『ねぇ、シズちゃん。ゲームをしようよ。何、簡単なことさ。ただ・・・』
静雄の肌を、ナイフの切っ先で嬲りながら。
ただ、笑って。
だけどその笑みが。
心底楽しげで・・・否、憎々しく、苦しげに歪められた眉の下にあったので。
「何が・・・単純なゲームだ、バカヤロウ」
心が。
きしんで。
雨と一緒に、流れていくようだった。
どしゃどしゃと。
酷い音を立てて。
雨水を跳ねさせて。
静雄は唇を噛み締める。
それは微か滲んだ鉄錆の味。
ただ一つ、閉じた瞼の下で。
決めたことが、あった、ただ、一つ、だけ。
静雄は歩き出す。
踏みしめるような一歩で。
ただ向かうのは。
『そうだね・・・スタートは・・・』
この雨が、止んでから。
そう、あいつは言ったので。
なら、静雄の取る行動など、疾うに知れているのだった。
雨が降っている。
どしゃどしゃと。
激しく、酷く。
それは、まるで。
Fine.