ちっちゃくない悩み
田口の、背の割りに大きなため息が聞こえたのは、白鳥が薄っぺらい眠りから目覚めた時だった。
やんわりと漂うコーヒーの香り。
愛用のアイマスクを外して、白鳥はゆっくりとその長身を伸ばした。
ばさっと毛布をはね除けて寝ていたソファから起き上がる。
勢いよく診察室のカーテンを開ければ、案の定、田口が自分の椅子に座って小さな背中を丸めていた。白鳥はだかだかと足音を立てて近付き、その手元を覗き込む――いつものノートは、置かれていない。
白鳥の存在に気付いているだろうに、田口はうつむいたままだった。
いつになく背中が小さい。
眉をしかめて、白鳥は真上から田口の頭を見下ろした。
「なぁにぐっちー。おっきなため息、ついちゃってさぁ。寝ていた僕のところまで聞こえてきたよ~」
「……いいじゃないですか。ボクだって、ため息をつきたくなる時くらい、あるんです」
あららぁ、と白鳥は内心でつぶやく。
どうやら田口は本気で落ち込んでいるらしい。
まぁ、それも無理ないかもねぇ、と思いながら田口の机に寄り掛かって、白鳥は腕を組んだ。
「ねぇぐっちー、いまさら考えたってしょうがないんじゃない? 桐生先生も、鳴海先生も、みんなわかってたんだよ。わかってて、それでも止められなかったんだしさぁ。ある意味でぐっちーはみんなを助けたと思うよ?」
「……え?」
見上げてきた田口の顔には、でっかく「意味がわからない」と書いてある。
当ての外れた白鳥は顔をしかめた。
「なぁに、ふたりが辞めちゃったことで悩んでるんじゃないの? やだな~、ぐっちー、もしかしてちっちゃいぐっちーの、ちっちゃぁい悩みだったりするの?」
「ちっちゃいは余計です!」
「え? これのどこが大きいって?」
椅子に座っているせいで、肩の下にある田口の頭をぽんっと叩く。すると田口は睨みあげるように上目遣いで見やってきたが、すぐに目もとから力を抜いて、またうつむいた。あらら、と白鳥はまた胸の裡でつぶやく。
田口はそれからしばらく、うつむいたままだった。
何か言葉に出来ない想いがあるらしい。
しばらく横で様子をうかがった白鳥は、僕らしくないんだけどなぁ、と誰にともなくつぶやいて頭の後ろを軽く掻いてから、また腕を組んだ。
「いいことを教えてあげようか、ぐっちー」
「――――」
「僕は他人を怒らせて反応を探るけど、素直で人のいいぐっちーはそんなこと、出来ないだろう? だけどぐっちーにはみ~んな、本気で話してくれたじゃない。事件のことも、事件じゃないことも。それってさぁ、ぐっちーが本気で話したからじゃないのぉ? なかなか出来ることじゃないよ、それって」
話の前半でうつむいていた田口は、白鳥が口を噤むと同時に、顔を上げた。
驚きに目を見開いている。
「……白鳥さん?」
「あっれー? わからないの? せっかくぐっちーを褒めてあげたのに。鈍い、本当に鈍いなぁ!」
「あ、あの、……白鳥さんらしくないんで、驚いちゃって」
「僕だって何度も驚いたよ? ぐっちー、僕には本気で怒鳴るんだもん。ぐっちーが大声をあげて怒るのって僕だけだよねぇ」
「そ、それは白鳥さんが本気で失礼なことを言うからです! 大体白鳥さんは失礼すぎますよ! ちっちゃいとか鈍いとか、普通、そんなこと他人には絶対に言わな――」
「それは本音も一緒、でしょ。だからぐっちーはすごいって言ってあげたのになぁ」
どうしてそんなに鈍いかなぁ、と白鳥はわざとらしく声をあげる。
田口は白鳥を見上げたまましばらく黙り込んでいたが、不意に視線を揺らすと、ゆっくりうつむいた。その背中が徐々に丸みを帯びて小さく肩が揺れる。
口を閉じた白鳥の前で、田口はうつむいたまま、泣き出した。
机に突っ伏して激しい嗚咽を漏らす。
白鳥は机に腰を乗せて診察室の中を一瞥した。
腕を組んだまま、白鳥は目を閉じると、田口が泣き止むまで傍らに佇み続けた。
終わり