そこに在るもの
始まりを告げるひんやりとした空気の中、皆守は1人屋上へと向かっていた。めずらしく早く起きはしたものの、どうにも授業に出る気にはなれなかったのだ。
重く軋む音とともに開いた扉の向こうには、いつもどおりに高い空と見慣れた風景が広がっていた。他の生徒たちが来ることも少なく、階下の喧騒からも解き放たれた格好のさぼり場所である。
(ん……?)
今日も1人のんびりしようと踏み入れたそこには、しかしすでに先客の姿があった。給水塔の壁に寄りかかって座り、じっと上空を見上げている。
「……九龍?」
呼びかけるでもなく呟いたその声に、九龍がゆっくりこちらへと顔を向けた。
「ああ。おはよう、甲太郎」
「なんだ、珍しいな」
「うん、まぁ、ここが一番空に近かったからな」
「空?」
九龍の返事に首を傾げつつ、皆守もその隣へと腰をおろし、九龍と同じように空を見上げた。
「そう、空」
そこにあったのは、一面の青。遠く高くどこまでも続く澄んだ色。雲ひとつ無く晴れ渡った、すべてを包み込む――偉大なる、空だ。
「遺跡に入るとな、数日間こもりきりになることが多いんだ」
空を見上げたまま、九龍はぽつりぽつりと語りだす。
「その暗闇も湿気も篭った空気も、好きで入った馴染み深いものなわけだけど……でもやっぱり、地上に出て青い空が見えると、なんとなくほっとするんだ」
はるか頭上に広がる青と、頬をなでて走り去っていく風。
閉ざされた地下空間にはない、さわやかな開放感。
自由な翼に乗って感じられる、『世界』との繋がりと連なり。
青い色を瞳に映し、九龍は幸せそうに微笑む。
「空を、見るとな。今回もちゃんと無事で出てこられたと、生きているんだということを実感するんだ。それがなんだか嬉しくてな。遺跡から戻ってきた日は、よくこうして陽が昇るまで空を眺めてるんだ」
「……陽が昇るまで?」
何気なく聞いていた言葉の中に引っかかる台詞を見つけ、皆守は思わず問い返す。
「ああ。最近は、よくこうしてここで……」
「ここでっ!?お前、毎日地下に降りてるよな? ってことはまさか毎日貫徹か!?」
「いやまさか。今は学校があるから、さすがに毎日はな。ちゃんと授業には出たいし、たまにだ。たまに」
「……でもやってはいるんだな」
そんなこと、全く気がつかなかった。
共に地下へと潜った時も、普通に寮に戻っていたのだ。部屋に戻る前に風呂に入ったりすると必然的に夜も遅くなるし、扉が閉じるのを見送ったこともある。そのまま眠っているものだと思っていた。なのに、その後寮を抜け出していたどころか校舎に、屋上に忍び込んでいたのだとは。その後そのまま普通に授業に出ていたのだろうが、九龍が遅刻や居眠りをしているところなどは見たことがなかった。
さすが《宝探し屋》というべきか、はたまたただの馬鹿というべきか。
よくそれで平気なものだと皆守は呆れと感心の混ざったため息を吐いた。
「ここから見える朝陽は、結構綺麗だぞ」
皆守の呆れた眼差しも気にする事無く、九龍は言った。嬉しそうに、何かを愛おしむかのような笑みを浮かべながら。
そういえば、九龍がここまで笑顔を見せるというのもまた珍しい。それほどまでにここから見える景色が好きだということなのだろうか。
「…………」
なんとなく複雑な気分になりながら、皆守は再び空を見上げた。
青く澄んだ色は何もかもを見守るかのように、ただそこにある。世界をひとつに包み込む、優しき腕(かいな)。
それは、深く暗い地の底でもがいていた者をすら、ただそっと受け止める。
それはある意味、『救い』のようなものかもしれないとふと思う。
望んだのなら、手を伸ばしたのなら、何も言わずにそっと握り返してくれる暖かな手のように。
「……ん?」
ふと右肩に重みを感じて視線を向けると、そこにはいつのまにか九龍の頭が寄りかかっていた。
「九龍……?」
呼びかけて覗き込むと、その両の目は静かに閉ざされ、心地良さそうな寝息が耳に届いた。
「おいおい……授業は出るんじゃなかったのか?」
呟いたところで、タイミングよく予鈴が鳴る。すぐに起こして戻らなければ、遅刻してしまうだろう。
「…………」
そう思って伸ばした手を、触れる寸前でふと止めた。
朝の冷たい風が髪を揺らし、睫毛が薄く影を作る。日差しは弱くはないが、気温が高いわけでもない。 そんな中で、九龍は皆守の肩にもたれて気持ち良さそうに眠り込んでいる。<br>
それを起こすのはどうにも忍びないように思われた。眠りの心地良さを知っている身としては、なおさらだ。
「……まぁ、いいか」
くすりとひとつ笑みをこぼし、皆守は今一度空を見上げ、そして自身も目を閉じた。
視界が閉ざされ、訪れる闇。
それでも思い起こせば、脳裏には鮮やかな青が広がった。
吹く風とそそぐ光と、肩に感じるぬくもりと。
ゆっくりと包み込む眠りの中、消えない光がそこにはあった。