The cat's meow
名前はふたつばかりある。
ひとつは「モリー」。
主人が俺を呼ぶ名前だ。
もうひとつは「イギリス」。
実はこっちこそが俺の本当の名前であり、俺としても気に入りの名前なのだけれど、これにはひとつだけ、問題があった。
すなわち、俺の主人の名前も「イギリス」だと言うことだ。
イギリス、ミスターイングランド。
どうやら彼は「国」という存在らしく、普通の人間とはちょっと違う気配がする。詳しいことはわからないけど。
さて、モリーなんて名前はありふれすぎていてつまらないとは思うが、俺がそれを甘んじて受け入れているのは、自分と同じ名を呼ぶやりづらさを理解しているからだ。
主人だって愛でて撫で回す猫を自分の名前で呼びたくなんてないだろうし、俺だってすり寄るときに自分の名前を呼びたくなんてない。
だから俺は主人を主人と呼ぶし、主人は俺をモリーと呼ぶ。
これが俺に、名前がふたつある理由だ。
……まあ、俺の呼びかけがにゃーにゃーという響き以外でもって主人に聞こえているのかどうか、甚だ疑問なのだが。
「あー……」
ソファから聞こえる、絞り出すようなぐったりした声は主人のものだ。
このところ掛かりきりだった仕事を明け方に終えて、やっとのオフ。
ベッドルームに行くのも惜しくソファで倒れ込んだのだろう。もぞもぞと体を動かし始めたのは昼過ぎで、それからまた三十分ほど、寝そべったままでぐだぐだしている。
普段はシャツにスーツをきっちりと着込んで、英国紳士たるもの云々と語り出す主人だが、スイッチが切れると途端にこうだ。
脱ぎ捨てたスーツは背もたれに掛けたままだし、シャツはぐしゃぐしゃ、スラックスも皺だらけ。元々まとまりのない髪は色んな方向にぴょこんぴょこんと跳ねて、いっそ不思議な形を作りだしていた。
部屋の中も荒れ放題、とまではいかないが、新聞やカーディガン、書類諸々が散らばっている。洗濯物もたまっているし、昨日の朝のティーカップが、深紅の中にそのまま放置されているのだからよっぽどだ。
俺には見慣れたものだけど、他人がこれを見たらさぞ驚くものではなかろうか。
本当はそろそろ腹が減っているのだけれど、そんな主人に餌を催促するのも忍びない。
向かい合わせのソファで丸まって観察を続けていれば、くすくすとした笑い声が聞こえてきた。妖精たちだ。
『イングランド、イングランド』
『あの子がくるわ、イングランド』
くるくると主人の周りを飛んで、彼女たちはこしょこしょ、ささやく。
んん、とまだ眠そうな主人は聞こえているのかいないのか、起こさないでやれ、にゃあと咎めれば、『何よモリー』ぷっと膨れられてしまう。
何百年と主人と一緒にいる妖精たちからすれば、俺は全く新参者らしい。口はつぐんだものの、背中にぽすんと座られてしまった。
主人が手入れをしてくれるおかげで毛並みはいつもふわふわで、俺は最近、彼女たちの特等席らしい。
重みは全くないからいいが、折れ曲がった耳やしっぽを触られるのは少しくすぐったい。
そうやってしばらくじゃれていれば、静かな部屋に唐突に、大音量が響いた。主人の携帯電話の着信音だ。
きらきらした、と表現できるようなかわいらしい音なのに、あんまりうるさすぎて騒音にしかなっていない。ぶちこわしだ。
そもそも主人の好みのものではないその曲は、この電話をかけてきた相手が設定したものだった。
俺専用だからねと笑う男に、こんなうるせー曲と文句を言いながら、主人はそれを使い続けている。
ガンガン流れ続ける音に眉をしかめた主人は、緩慢な動作で携帯を探り、それからこの曲に気づいたのだろう。慌てて、自分の下敷きになっていたそれを引っ張り出した。
慌てすぎてソファの下に一度、携帯を取り落とす。がばりと起き上がろうとして、ついでに自分も落ちる。
落ちたまま、慌てて通話ボタンを押した。
「な、なんだよ!」
第一声もそれで、紳士らしさのかけらもなかった。ああ、見てられない。
しかし観察されているとは夢にも思わないらしい――思い至ったとして今の状況では気に求めないだろうが――主人は、わざと押さえようとして、それでも浮かれた声で会話を続ける。
通話口から聞こえてくる男の声はやっぱり大きくて、俺のよく知ったものだった。
「――は?ヒースロー?!」
素っ頓狂な声で繰り返したのは、男が告げた場所の名前。
今からいくよとさわやかな断定。元々落ち着きを放り出していた主人の声がさらに焦りを帯びる。
「お前……っ!もっと早く連絡しろっていつも言ってるだろばか!俺にだって予定が――……あ、いや、お、お前がどうしても来たいって言うなら空けてやらなくもないけどな!……い、一時間後だなわかった!」
ぎゅうぎゅうと携帯を握りしめて、白い指。
見えないだろうにこくこくと大きく頷いて、それから一方的にピ、と終話ボタンで断ち切った。
自分から切っておきながら、ちょっと名残惜しそうに携帯の画面をまじまじと眺めている主人に、呼びかける。
おい、急がなくていいのかよ。
「にゃー」
「……!!」
意味が通じたのかはわからない。
けれど俺の鳴き声にばっと顔を上げた主人は、慌てて廊下に飛び出した。
風呂メシ掃除に洗濯、あああ紅茶の準備にスコーンも!一時間で足りるわけねーよ!ばか!
自分にか、ここにはいない相手にか、ぎゃーぎゃー悪態をつきながらどたばた、走り回る音がする。
ばたんという音と小さな悲鳴。こけたな。
ため息をつく俺の背にのっかって、妖精たちはやっぱり笑う。
『だから言ったのに』
『だから言ったのにね』
『あの子がくるって教えてあげたのに』
『無視するイングランドが悪いんだわ』
『でもイングランド、楽しそうね』
『幸せね』
『しあわせだわ』
イングランドが幸せだと、私たちも幸せだもの。肩をすくめて言う、その視線の先を追えば、なるほど。怒りながらも目をきらきらさせた表情は、さっきまでとは全然違う。
そわそわ、ばたばた。
疲れも眠気も吹き飛ばし、時計を気にしながら物の散った屋敷の中を走り回る。
白い肌に頬がちょっぴり上気して、俺の目にも主人はとても楽しげに見えた。いいことだ。
素直でない彼のことだから、待ち人が来てしまったら必死でその表情を押し隠し、何気ない顔をしてみせるんだろうけど。
タイムリミットは、一時間。
いつものあの、チャイムを連打する音が聞こえるまでだ。
……さて、ところで俺のメシはいつもらえるんだろうか。
作品名:The cat's meow 作家名:とびうお