Effects&Truth
Effects・1
「行ってくる」
私と相沢の別れの瞬間は、その一言で終決した。
いつ会えるとも分からない、そんな別れであるのに、将来の約束も決定的な別れの言葉もなく、ただその一言だけを二人の間に残しただけだった。
そして今、相沢は東京、私はドイツにいる。
ドイツに来た当初、私には何もかもが目新しく、正直「洋行の官命」を受けてこの場所にいる、と言う事実さえなければ、他の留学生達と共にビールによい、ビリヤードに熱中していたかもしれない。
しかし、母親や国家からの期待、そして、相沢と過ごした日々の思い出が私に今の世界からつま先さえ外に出ることを良しとしなかった。
相沢が愛した私の品行方正さを、まだ捨てることが出来ないのだ。
なぜなら、私の胸中に住む相沢への完全なる決別を言い渡せないから。
…決別など出来るはずもない。
私は今でも相沢を愛し続けてしまっているのだから…。
ドイツに来て、三年の月日が過ぎた。
勉学にいそしむその年月は長いようで短かった。
今という一瞬を長く感じるのに、今までが嘘のように短く思うのに似ていた。
様々な未練は忙しさが忘れさせ、床につくときに、ふと悲しみがよみがえるくらいだった。
変化と言えば、留学生仲間の一部との仲が険悪になってきたことぐらいか。
付き合いの悪い私を彼らが快く思わないのは当然と言えば当然であったが、私には自らが彼らより優れているという自負があり、当然それは他者から見ても明らかであった。
それ故、いかに気にくわなかろうと、彼らが私に害をなすことは出来なかったのである。
そんなときだ。名も知らぬ西洋の乙女に声を掛けてしまったのは。
それはきっと、彼女が私によく似ていたからだ。
捨てられた子犬のごとき淋しさに満ちた眼差しは、胸中の私が遠く、東京にいる相沢を想うときによく似ていた。
せめぎ合う感情と理性の狭間にあって、ただただ今すぐに会えない人のことを思う。
その点に置いて、私は彼女が私の同士であると悟ってしまったのだ。
「何故、泣いているのか。私は家族のいない余所者だから、力を貸せる知れない」
同情。この時の私の感情を表すのは、その一言につきた。
自らと同じ悲しみを抱くものを助けられたら、自分さえ救われるのではないか、と安易に思ったのだ。
名をエリスというその少女は、年の頃十五、六。
はちみつ色の髪と透き通るような蒼眼が印象的な美しい少女だった。
父を亡くしたが、葬儀を行う金が無く、更に母は金を作る術があるなら、意に染まなくともそれに従え、と言うのだという。
その術とは、『身売り』であった。
ヴィクトリア座の舞姫であるエリスに、そのこの座頭が金と引き換えに…、とその行為を強要しようとしたのだ。
「わたしを助けて。
いつか、いつかお金は返す。そうでなければわたしの身体と引き換えでも構わない。
それがダメなら、わたしは、母の言葉に従わなければならない…」
感情の高ぶりに身を震わせ、潤ませた眼で見上げられて、私はもう、否とは言えなかった。
その時のエリスに、私は同情を通り越して尊敬の念を抱いたのだ。
私がとっくに忘れてしまった素直さが、今非常に尊いもののように思えてならなかった。
私は手持ちの金がなかったので、エリスに身につけていた時計を渡し、それを質に入れるように言って、帰った。
その時の、エリスと驚きの表情と手の甲に注がれた涙の熱さはおそらく忘れないだろう。
共にいる時間が増えるにつれ、私はエリスに同情や尊敬以外の感情を抱くようになった。
始めは兄のように見守り、次は師として学問を教えた。
そしてついに私は、エリスの美しさ、あだな姿に心動かされ、男女の関係を持つに至った。
私の中の空洞をエリスは少しずつ埋めていった。
相沢に向かうあらゆる感情は未だ心の中にあるけれど、いずれ消してゆけると思った。
そんな矢先、私は職を解かれた。
私を快く思っていなかった彼の集団にエリスとの仲を誤解されたあげく、「太田は舞姫を手当たり次第もてあそんでいる」と官長へ報告されてしまったのである。
官長が信用をおけたはずの私を根も葉もない噂によって解雇したのには、他に故があった。
外国の空気に触れ浮かれていた私は、従来の自分から解放されたような気になって、日本にいたときの私なら決してしないような振る舞い、例えば、官長に意見したり、歴史文学に浸ったり、をした。
それがきっと私を「行ける法律」としようとした官長の反感を買ってしまったのだと思う。
私は結局、官長の勧めを断り、自尊心のために異国の地で無職になることを選んだ。
もちろん、エリスと離れがたかったことも理由だった。
しかし、世の中職もなく渡っていけるほど甘くないことは私とて知っていた。
外国人が仕事を得難いという事実も。
そんな私を窮地から救ったのは、相沢だった。
彼は日本にある新聞社に要請して、私をドイツの通信員にしてくれたのである。
とはいえ、私には相沢の意図が読めなかった。
『私をドイツに残りやすくする手助けをした』
その事実は、相沢が私をもうあの時のような想いで見てくれていないということなのだろうか…?
しかし、その思いは、徐々にかき消えていくことになる。
日々の暮らしの苦しさに考える余裕が消えた。
そして、相沢のいる場所はあまりにも、遠い。
近くにいるエリスや自分自身の方がずっと重要だった。
生活のため、解雇されてすぐにエリスの家へ越してきた後は、私の生活に占めるエリスという存在の割合が日に日に大きくなっていった。
エリスとの生活に幸福を感じるようになるのと同時に、私は昔の私からより遠ざかるようになった。
国家人としての学問は荒み、民間学へと通じるようになった。
知識が狭く深いものから、浅く広いものへと変わっていったのである。
私は、その時の私が昔の私に劣るとは思わなかったが、違和感を覚えることだけは、禁じ得なかった。
作品名:Effects&Truth 作家名:狭霧セイ