La Massage Rouge
「あ、」
s、の最後が歪んでしまったのを見つめてイギリスは深いため息をついた。何をしているんだろう、自分は。
厳粛な作りの大理石の床にはおよそ不釣り合いな、安っぽい赤い線。クレヨンにも似たそれは、つまり女性が唇を彩るべくして作られたものであって、
「……」
右手の中の、もうおそらく使い物にならないであろうそれを見て、イギリスは昏い優越感を覚える。この色で唇を彩るべき、であっただろう誰か、がもうそれを叶うことはないという事実に、ぞくりと背徳の快感が背筋を駆ける。
ぴちゃん、と、シャワーから一滴の雫が垂れて、床の上に書かれた『AvecReflects』の文字の上で油に弾かれて飛び散った。
——反省しろ。
最後にひときわ大きくエクスクラメーション・マークを書いて、イギリスはバスルームを後にした。
ぼろぼろになってしまった口紅は、わざと床に転がしておいた。
どうして、あんなもの見つけてしまったのか。
珍しく用事があったのでフランスの家に行った。そこまでは別に問題はなかった。ちょっとした話し合いと予定調和の結論と、書類の何枚かと、印鑑。それだけのはずだった。
しかしフランスは留守だった。合鍵で勝手に入ったのでそれは入ってみるまでわからなかったのだが、なら待ちがてらくつろいでいるかとキッチンへ入っていった(そこにはフランスは言わないけれど、いつもイギリスの好きな香りの紅茶葉が数種類置いてある)。紅茶を飲んで一息ついて、それでもまだ帰ってこなかったので、ぶらぶらと各部屋を物色していたのだ。電話をかけようかとも思ったけれど、そこまで急いでいる用事でもないし、何より、電話をかけるのは少しばかり癪だったから。
寝室に入ると、フランスの香りが強くなって、それと共に数週間前を最後にした宵闇の行為が思い出されて、かあっと身体が熱を発するのがわかった。昼間から、みっともない。想像を打ち消すように、イギリスは強めに首を振って思考を落ち着かせる。
と、振ったその視線の先に転がる、何か光るものを見つけてしまったのだ。
近づいて拾ってみれば、それは鈍く金に光る筒のようなもの。しかしサイズとしては、手のひらに収まってしまう、そう、ちょうど、親指と人差し指で挟んで持つのに具合がいいような——
直感的にそれが何であるか、そして何を示すのか理解して、ざっ、とイギリスの顔から血の気が引いた。フランスは変態ではあるが女装癖はない。ましてや自分など、近づかなければそれが何であるかわからなかったほどである。
この時ばかりは、回転の速すぎる自分の頭を恨まずにはいられなかった。
たぶん、でもきっと、そう。
こんなことぐらいで、裏切られた、などと思ったわけではない。フランスが自分と関係を持つようになってから女性を抱いたのも一度や二度ではないし、このぐらいでお互いを突き放せるほど、付き合いは短くはないのだ。
けれど、今日は無性に腹立たしかった。自分が不覚にも行為を思い出して甘い思考に酔っていた部屋で、自分の知らない顔で、別の誰かを抱いたのかと思うと、締めつけるような服を着ていないのにぎりぎりと心臓が圧迫されるような気がした。
痛い。いたい。くるしい。
それでも、健気なプライドが涙を邪魔した。だからその代わりに、少しばかり意地の悪い趣向で一矢報いてやろう、そう思って、イギリスは金の筒を握りしめてバスルームへと向かったのだ。
ほんとなら口紅を捨てて紅茶を片付けて、なかったことにして帰っても良かったけれど。
でもほんとうのほんとうは、追いかけて、見つけてほしくて。
「…で、こちらにいらしたということですか」
「う」
まあ、イギリスの頼るところなどたかが知れている。——というのが如何せん鬼ごっこには不向きで辛いところであろうが。
「冷めますので、どうぞ」
日本がそっと手のひらで促す。それを受けてイギリスは目の前の湯呑みを手に取り、気を使ってくれたのだろう、ティーバッグで入っている温かい紅茶をひとくち口に含んで嚥下する。
「…馬鹿だと、思うだろ」
うー…ん、そうですねえ…と、日本は言葉を慎重に選ぶ。確かに、馬鹿だと言えば、馬鹿なのだけど、しかし、そんな馬鹿さ加減が時には必要なことも、殊に恋愛という非常時にはあるのではないでしょうか。
まあ、相手があのフランスさんでは、何をしたところで馬鹿らしくなるのもわかりますが。
日本は薄くため息を吐いた。それでも、お互いがお互なしでは生きてすらいけないこの二国の関係は、興味の対象以外にも羨ましくもある。
どんなに傷つけあったとしても、その手を離すことさえできやしないのだ。
手を離せるのなら、とっくにどちらかが滅びるまで争っていただろう。
「とりあえず、今日はゆっくりしましょうか、ね」
そして朝になったら、すぐに見つけては機嫌を損ねるのを見越して、探すふりをして独り寝の夜を明かした人に電話をかけてあげましょう。もちろん、電話などなくとも、明日の昼すぎには真っ赤な薔薇の花束と歯が浮くような台詞を引っ提げて迎えに来るつもりなのでしょうけれど。
受話器の向こうで、毎度毎度悪いな、なんて言う声に、今度ばかりは少しお説教をしてあげなくては。
それが年長者の役割ですからね、と日本はひとりごちた。
作品名:La Massage Rouge 作家名:統華@ついった