涙雨
二度と、貴方を離さないから。
【涙雨】
四月半ば。
菊の家に、耀が遊びに来ていた。
いつも耀は気紛れに遊びに来ては、菊と共に季節を満喫したり国内の何処かに出かけたり、気ままに過ごしていた。
言ってしまえば我儘放題なのだが、菊はそれが嫌いではなかった。
むしろ、明るい彼の姿を見ていると、自然とこちらも元気を貰えるからだ。
夕飯の支度をしている間、ちらりと耀の様子の窺い見る。
耀は、ぽち君と戯れながら、ほとんど花を散らしてしまった桜を眺めていた。
夕日で逆光になり、輪郭が柔らかく見える。
のどかな風景に、菊はふわりと微笑み、再び調理に専念した。
ふと顔を上げると、辺りの空気が少し冷えているのに気が付いた。
窓から見える空が、みるみるうちに黒く重い雨雲を敷き詰めていく。
(この大根を切り終わったら、洗濯物を取り込みましょうか……)
煮物の下準備を終わらせ、手を拭いているうちに、強い雨が一気に降ってきてしまった。
そこで菊はハッと気がつく。
(耀さんに頼めばよかったんじゃないですか!私の馬鹿!)
一人ツッコミで少なからずショックを受けつつ、菊は台所から縁側へ駆けていく。
「ゆっ、耀さん!!洗濯物を――」
そこで言葉は途切れ、続きが紡がれる事は無かった。
あまりに不自然な光景を、目の当たりにしたから。
ざぁざぁと容赦なく降り注ぐ雨の中、耀が、その只中に立っているのだ。
僅かに頭上の曇天を見つめ、物干し竿に掛けてある洗濯物に手をかけたまま、微動だにしない。
きっと、耀も空の変化に気付いて取り込んでくれようとしたのだろう。
だが、何故そのまま雨に打たれているのか……
縁側から、ぽち君も心配そうに見つめている。
「耀……さん?」
恐る恐る、菊は耀に声をかけてみた。
耀はその声に、ゆるゆると反応したものの、こちらに向けたのは横顔だけで。
雨に濡れた彼の頬に伝った雫が、まるで涙のようだった。
「菊……今日は、何日あるか」
雨音で掻き消されそうなか細い声と共に発せられた言葉は、突然の質問だった。
意表を突かれて一瞬反応が遅れた菊は、慌てて壁にある暦に目を向けた。
「えっ?き、今日ですか?えー……今日は―――…」
どきり、とした。
日めくりカレンダーの数字は、“17”を示している。
今月は四月。
四月の、十七日。
そう、今日は―――
貴方に、消えない傷を残した日……
確か、貴方に背を向けた後も、雨が―――
そこまで考えて、酷くゆっくりと、菊は庭の耀に視線を戻した。
彼はまだ、降り続く雨に打たれている。
いつまでもこちらを見ているはずはなく、その顔は俯いていた。
「――あぁ……!」
居間から駆け寄り、菊は足袋のまま庭に居る耀を抱き締めた。
きつく、きつく。
「……ごめんなさい、耀さん…。いえ、兄上……っ!」
貴方には笑っていて欲しいのに。
そんな顔をさせてしまう要因も、また私だなんて――。
彼はきっと、こんな春の雨の日に、いつも思い出してしまうのだろう。
あの日の、絶望と不安を。
一層、耀を抱き締める菊の腕に、力がこもった。
「どうか……泣かないで」
もう、何処にも行かないから。
貴方を、悲しませたりしないから。
すると、耀は菊の背に緩く腕をまわして、一言だけ呟いた。
「謝謝……菊……」
冷え切った頬に、暖かな涙がひと筋、伝い落ちていった―――
『春の日の、涙雨』
fin.
【涙雨】
四月半ば。
菊の家に、耀が遊びに来ていた。
いつも耀は気紛れに遊びに来ては、菊と共に季節を満喫したり国内の何処かに出かけたり、気ままに過ごしていた。
言ってしまえば我儘放題なのだが、菊はそれが嫌いではなかった。
むしろ、明るい彼の姿を見ていると、自然とこちらも元気を貰えるからだ。
夕飯の支度をしている間、ちらりと耀の様子の窺い見る。
耀は、ぽち君と戯れながら、ほとんど花を散らしてしまった桜を眺めていた。
夕日で逆光になり、輪郭が柔らかく見える。
のどかな風景に、菊はふわりと微笑み、再び調理に専念した。
ふと顔を上げると、辺りの空気が少し冷えているのに気が付いた。
窓から見える空が、みるみるうちに黒く重い雨雲を敷き詰めていく。
(この大根を切り終わったら、洗濯物を取り込みましょうか……)
煮物の下準備を終わらせ、手を拭いているうちに、強い雨が一気に降ってきてしまった。
そこで菊はハッと気がつく。
(耀さんに頼めばよかったんじゃないですか!私の馬鹿!)
一人ツッコミで少なからずショックを受けつつ、菊は台所から縁側へ駆けていく。
「ゆっ、耀さん!!洗濯物を――」
そこで言葉は途切れ、続きが紡がれる事は無かった。
あまりに不自然な光景を、目の当たりにしたから。
ざぁざぁと容赦なく降り注ぐ雨の中、耀が、その只中に立っているのだ。
僅かに頭上の曇天を見つめ、物干し竿に掛けてある洗濯物に手をかけたまま、微動だにしない。
きっと、耀も空の変化に気付いて取り込んでくれようとしたのだろう。
だが、何故そのまま雨に打たれているのか……
縁側から、ぽち君も心配そうに見つめている。
「耀……さん?」
恐る恐る、菊は耀に声をかけてみた。
耀はその声に、ゆるゆると反応したものの、こちらに向けたのは横顔だけで。
雨に濡れた彼の頬に伝った雫が、まるで涙のようだった。
「菊……今日は、何日あるか」
雨音で掻き消されそうなか細い声と共に発せられた言葉は、突然の質問だった。
意表を突かれて一瞬反応が遅れた菊は、慌てて壁にある暦に目を向けた。
「えっ?き、今日ですか?えー……今日は―――…」
どきり、とした。
日めくりカレンダーの数字は、“17”を示している。
今月は四月。
四月の、十七日。
そう、今日は―――
貴方に、消えない傷を残した日……
確か、貴方に背を向けた後も、雨が―――
そこまで考えて、酷くゆっくりと、菊は庭の耀に視線を戻した。
彼はまだ、降り続く雨に打たれている。
いつまでもこちらを見ているはずはなく、その顔は俯いていた。
「――あぁ……!」
居間から駆け寄り、菊は足袋のまま庭に居る耀を抱き締めた。
きつく、きつく。
「……ごめんなさい、耀さん…。いえ、兄上……っ!」
貴方には笑っていて欲しいのに。
そんな顔をさせてしまう要因も、また私だなんて――。
彼はきっと、こんな春の雨の日に、いつも思い出してしまうのだろう。
あの日の、絶望と不安を。
一層、耀を抱き締める菊の腕に、力がこもった。
「どうか……泣かないで」
もう、何処にも行かないから。
貴方を、悲しませたりしないから。
すると、耀は菊の背に緩く腕をまわして、一言だけ呟いた。
「謝謝……菊……」
冷え切った頬に、暖かな涙がひと筋、伝い落ちていった―――
『春の日の、涙雨』
fin.