泣いてもいいのに、
『我は平気、ある』
そう言って。
あの子は笑ってみせたんだ。
【泣いてもいいのに、】
突如降り注いだ戦火が、止まることを知らずに民を、大地を飲み込んでいく。
“彼”は以前に、今戦っている“弟”に手酷く裏切られてしまった。
その傷がやっと癒えた頃、廬溝橋に響いた銃声。
戦乱は、一度ならず二度までも“兄弟”を引き裂いた。
――で。
俺はその“彼”を支援するために、物資だの何だのを送り届けに来たところ。
本当はアーサーとイヴァンと一緒なんだけど、今は荷降ろしとかしてるんじゃないかな。
今は、俺ひとりだけが――
あの子……“彼”の後ろ姿を見ている。
重慶の本拠の建物から少しばかり離れた、開けた場所。
傍らに武器を、其処には静寂のみを。
中身の無い木箱に座って、曲げた片足にそれと同じ方向の腕を乗せて、遠くをぼーんやり見つめていた。
その背中に、俺は忍び寄るように近づいていく。
少しずつ。
少しずつ。
彼の姿がはっきりしてくる。
あちこちに包帯が巻かれていて、所々血の滲んだ箇所があって、かなり痛々しい。
突然、彼が振り向いた。
「……アルフレッド」
「やぁ」
いつもならここで何か付け加えて笑ってるところだけど、とてもそんな気にはなれない。
だって、彼は。
「荷物」
「え?」
「……謝謝」
「……ああ、お安い御用だよ。君の苦労に比べたら……ね、耀」
小さな声で呟かれた感謝の言葉は、けれど確かな強さで伝わった。
―――風が、吹いていた。
びゅうびゅう。
耳元で、うるさく響く。
俺と耀の髪は、嫌な湿り気を含んだ風に暴れている。
俺のジャケットは揺れている。
耀の包帯の端が、揺れている。
ん、と耀がさっきより少し目をぱちりと開いた。
「他の二人は?」
「荷降ろしでもしてるんじゃないかな?」
「……了」
問いに答えると、耀は俺から興味をなくしたようにまた彼方を見つめた。
普段は毅然と振舞う彼が、何の言葉も発さずにただ、途方も無く。
そんなはず無いのに。
彼が、何処かに消えてしまいそうで。
俺は思わず、
「耀っ……」
名前を呼んだ。
彼は気だるげにもう一度振り向く。
表情は相変わらず、無表情に近い。
「まだ何か用あるか」
「あ……いや、何でもないんだ……」
情けない!
好きな人のために、何か気の利いたことさえ言えないなんて!
心底自己嫌悪していると、耀が
「なぁ」
と話し掛けてきた。
「えっ……な、なんだい?」
意識が半分飛んでた俺は、なんとも挙動不審な返事をする。
耀は一瞬顔をしかめたけど、またすぐに冷めた眼に戻った。
そして、彼は――とんでもない事を、口にした。
「お前には、菊の気持ちが分かるあるか」
「は―――」
何だって?
言葉の意味は分かる。だけど、なんだってそんな事を聞くんだ?
目を白黒させる俺に、耀はもう一度、今度は的確に心を突き刺すような言葉で言った。
「……兄を裏切る弟の気持ちが。お前には分かるあるか?」
俺は硬直する。
あえて直接、直球で俺に聞いてきたことと。
嘆きにも似た呟きを吐いた君が、あまりにも辛そうに見えたことと。
一層、強い風が吹き抜ける。
びゅうっ。
――この風が、此処に停滞する重苦しい空気さえ攫ってくれれば良いのに。
俺は、固まったままの体に鞭打つように答えた。
「俺には………分からないね」
そうだよ、俺も。
アーサー(あに)に逆らってまで、自立を選んだ“おとうと”だ。
けれど、違うと思う。
菊と、俺は。
耀が一瞬目を伏せて、
「……そうあるか」
と言って、
………笑った?
それを見て「あ」と俺は言いたかったことを思い出した。
今日、風に吹かれる君の姿を見て、最初に思ったことを。
「耀、君さ……」
彼は僅かに首を傾げて、何?と眼で問い掛けてくる。
「自分で言ってて、辛くは無いのかい?」
「……裏切る、あるか?」
そうだと言わんばかりに、俺はひとつだけ頷く。
「それと……さ。菊と戦って、もう3年経つだろ。いい加減……苦しくは、ないのかい」
今回ばかりは、何もヒーローになるのが目的じゃない。
彼の心に付け込もうとしている訳でもない。
正直――俺は、俺が何がしたいのか、よく……分からない。
鼓膜を震わせ届いた言葉に、耀は少しだけ目を見開いた。
それから、今度は確かに。
「我は平気、あるよ」
笑った。
笑って、みせた。
その笑顔は、悲しみとかそんな単純なものじゃなくて。
何か――諦め、いや決意。
“戦わなくてはいけない”
そう、何よりも雄弁に語っているように思えた。
俺は、胸が締め付けられるという感覚を、再び覚えた。
でも……あの時とは違う。
兄は、哀しみから涙を流した。
俺はそれに、ぎゅうと胸が締め付けられる思いをした。
間違っているのは俺なのか?と。
でも……今は。
彼は、決意に笑顔を見せた。
俺はそれに、ぎゅうと胸が締め付けられる思いをした。
なぜ君は泣かないんだ?と。
悲しいなら、泣いても良いのに。
何故君は、頑なにそれを拒むんだろう。
いや、違うか。
見ているこっちが辛いから、思いっきり泣いて欲しいのかもしれない。
――神様!
どうか、この気高き人が長き苦難から救われんことを!
いつの日か、幸福があらんことを!
泣いても良いよと、言えたのなら。
fin.