貴方に憐れみを
幸せな日常なんて一瞬にして崩れると身を以て知った。温かかったシチューも、無邪気だった友達も、優しい笑顔の母親も、心強い父親も、自分の息子のように接してくれた親戚も、挨拶を交わした隣近所の人間も、全てが、一八〇度変わる瞬間を、俺は知っている。
愛情や友情なんて物事一つで大きく変わってしまう。信用すればするほど裏切られるのに、それをよすがに生きる人間達が愚かしくて仕方なかった。それでも人の中で生きるしかない俺は、いつしか実力で相手をねじ伏せる生き方を選ぶようになっていた。恐怖こそ人間の根底にある、一番支配的な感情である。それを捕まえ握ることで自分こそが支配者となる。ねじ伏せ従わせる以外の信頼関係など甘ちゃんのおままごとに等しい。
今でも俺の耳の奥、扉を叩く音、罵倒の声、母親の慟哭、小さな背中の父親のヒステリー、隣近所の無情な噂話、学校での無慈悲な嗤い声が離れない。苛々する。お前らが大事にしている友情だなんてすぐに崩れていくのに、信頼関係なんて脆く儚いものなのに、それに縋って偽りの世界の中で、全てが美しいとでも言いたげに満足そうに笑いながら。
何よりも誰よりも、一度崩してもしぶとく幸福に縋り付くあいつが、俺を一等苛立たせる。生まれたときから幸福で、裕福で、何の不自由もなく生きてきたあいつが目障りで仕方ない。どうしてあいつは未だに純粋な瞳をしているのか理解できない。それとともに苛立ちだけが募っていく。目障りだ。頭部を床に押し付けて動きを封じて、無理矢理服をはぎ取り、絶望感しか残らないような酷い抱き方をしても、体中に痣をつけても、あいつは結局、俺を見る瞳を変えない。どうして屈しない。恐怖をいくら与えても、絶望をいくら当てつけても、どうして、どうしてどうしてどうして!
「不動」
憔悴しきった声が届いて俺は動きを止める。組み敷かれ涙で頬が濡れそぼっているにも拘わらず強い眼光が俺を貫いた。抵抗ばかりだった両手を俺の頬に当てながら、佐久間は、嘲笑するでも揶揄するでもない、酷く穏やかな笑みを浮かべた。
「可哀想な不動」
呆気にとられている俺の唇を、触れるだけのそれで奪った佐久間に抱き締められる。沸点をとうに超えるはずの怒りが不思議と起こらずに心の中は波の立たない水面のように静かだった。
「俺は変わらない」
愛なんて、この世で一番愚かだと俺は知っている。無条件で愛してくれる親の愛情が、一番の愛情を注いでくれるはずの両親が、容易に俺を壊したように。
「なあ、不動」
信じても、裏切られる。何かの消失と共に、ほんの些細な出来事で、全ては崩れ去って元には戻らない。
「愛してるよ」
何よりも嫌いな言葉に浮かぶこの感情が、瞳を濡らす意味を俺は知らない。
【貴方に愛情を】
虚無の中で俺はどうしても、
こいつを手放すことができずにいる