ロマンティコ
夢を見るような眼差しで、そう言って男が笑う。その視線の先を無意識に追おうとして、やめた。
(だってそんなの、知ってるから)
追ったところでどうしようもない。彼は今、私を捨てるために、ここにいる。
「あ、双子や」
彼の銜えた麦稈から、ぷかりと膨らんださぼんの玉が浮かび上がる。うまい具合に形作られた二つは、片時も離れることなく空へと消えた。
「なあ、今の見た?」
振り返って目を細めた男の顔を正面から見ることなどできなくて、私は握った麦稈を手持ち無沙汰に弄っていた。
羨ましい、なんて。
生まれ落ちた瞬間から、消滅のその日まで。
彼らはきっと、寄り添ったまま過ごすのだろう。――――私たちとは、違って。
「アントーニョさんさんは、とても器用でいらっしゃる」
苦し紛れに呟いた科白は、気持ちに反して無感動に響いた。
「せやろ?いくらでも作ったるで」
けれども、そんな言葉すら彼の耳には単なる賛辞に聞こえてしまうらしい。
違うのに。そうじゃないのに。
ぷかり、ぷかり。
さぼんの玉は、次々に飛んでゆく。飛んでいって、消えてゆく。
知らぬまま過ごした日々は、もう二度と帰ってこないのに。
「菊ちゃん?」
男が不思議そうに顔を覗きこんできた。はっとして見やると、私の手の中の麦稈はいつの間にかすっかり折れ曲がってしまっている。
「あ・・・・」
取り繕うように持ち上げた頬は、何故だかとても強張ってしまった。目の前を過ぎるさぼん玉が、じわりと滲む。
「なんやねん、泣くことあらへんがな」
困った声で頭を掻く表情は、きっとそれでも笑っているのだろう。困ったように、少しだけ呆れたように。
「さぼんの液が、目に・・・・・・」
慌てて目元を覆った手のひらが、ぼやけた視界を黒く塗りつぶした。何も見えない。何も、見たくない。
「擦ったらあかんで」
なのに、笑顔の声は残酷に世界を照らす。私の行く手を、暴いてしまう。
「菊ちゃん」
強引に掴まれた手首が、痛い。
「ちょっとの間や」
「・・・・・・うそつき」
「嘘やないで」
即座に否定された言葉に、私はそれ以上反論しようとは思わなかった。したって仕方ない。私を裏切った男と、男を欺いた私の化かしあいはどんなに足掻いたところでもうすぐ終わる。
「――――時間や」
不意に、眦を優しい温もりを感じた。それが男の唇だなんてことは、見ずともわかる程度には慣れ親しんでしまった。そんな、温もりだった。
「時間が経てば、きっとまた会える」
触れたままの唇が、私の睫毛をさわさわとくすぐる。漏れた呼気の甘さまで、全部知っている。
「うそ、ばっかり」
それだけを言うのが、もう精一杯だった。それ以上を口にするには、私は臆病過ぎた。
再び、笑った気配がした。それから、男の離れていく気配も。
「目ぇ、開けたらあかんで」
離れた声が囁いた。そんなこと、言われなくてもわかっている。来るべき時が来たのだ、と。
「そのまま、いい子にしとき」
微かな物音と共に、鼻先で何かが破裂した。
「何す――――」
柔らかで、優しい。サボンの玉を吹きつけられたのだと知った瞬間、先ほどまで眦にあった温もりが唇を塞いだ。
「――――っ」
口付けは、すぐに離れていった。皮膚の表面を掠めるだけの、本当にささやかなものだった。
「目ぇ、開けたらあかんで」
男の声が聞こえる。さっきよりも、もっと遠くから。
「ええな、開けたらあかんよ」
アントーニョさん。
アントーニョさん。
「開けたら―――・・・・」
アントーニョ、さん。
堪えきれずに開いた視界のどこを探しても、男の姿は無かった。彼は帰ったのだ。彼を待つ、海の向こうの世界へ。
どこからか、船の汽笛が聞こえた。私と男を別つ、最後の嘶きだった。
「アントーニョさん・・・・っ」
今さら叫んでみたところで、もう彼は帰って来ない。二度と。この国へは。
「アントーニョさん、アントーニョさん・・・・!」
それでも私はその名を呼び続けた。喉が裂けて、そこから血が迸るまで。
「アントーニョさん!」
膝に叩き付けた拳の傍らに、男が置いて行った麦稈が転がっていた。私と同じ。置き去りの。
「アントーニョさ・・・・・・」
徒に触れてみたそこからは、もう男の温もりなど微塵も感じられなかった。当たり前だ。実に、当たり前である。
時間が経てば。
時代が、変われば。
そう言って去ったうそつきな男の、哀しいほどに優しい温もりは。
「迎えにくるとは、言わなかったな・・・・」
知らず零れた自分の言葉の刺に、私は思わず笑みを浮かべた。そんなこと、言えるはずがないことなど端から判っていたじゃないか。お互いに、それ以上を期待してはいけないと。
期待しては。期待、など。
「判っていたことだ・・・・・・」
呟きは消えたさぼんの代わりに、いつまでも宙を彷徨った。