天窓
薄暗い部屋の壁、高い位置に天窓が穿たれ、嵌め込まれた窓枠が黒く空を切り取っている。古い本を詰め込んだ場所独特の埃っぽさと、どこか懐かしい乾いた匂い。
アルフォンスの感覚は失われているので、正確にはそれを感知することはできないけれど、兄がいたらきっとそう認識するだろう、と思った。
光りが落ちてきている。
アルフォンスは手にしていた本を閉じ、書棚に戻すと、ひょいと角の向こうを覗き込んだ。
赤いコートをまとった小柄な姿が、座り込んで本に目を落としている。みつあみにした金色の髪に、天窓から降る光りがちらちらと揺れていた。
「兄さん」
アルフォンスが声をかけると、ふっと水中から引き戻されるように、一瞬のまばたきをしてから振り返る。
「ああ、アル」
「何か見つかった?」
「いや、まだ。おまえは?」
「僕のほうも」
「そっか」
「少し休憩にする? お茶でもいれようか」
「んー、いい。これ、読んじまいたいから」
ふる、と頭を振ると、エドワードは軽く天井を仰いだ。
「ああ」
「なに?」
「眩しいと思ったら」
エドワードはふっと金色の目を細める。
「ここ、天窓があるんだな」
アルフォンスは顔を上げ、兄と同じ方向を視界にいれる。
(ああ)
懐かしい、とアルフォンスは思った。
かつて兄弟が過ごした家には父の書斎があり、ものや本を詰め込んだ書庫があった。
昼間には外の明かりを、夜には毛布を持ち込んで、ランプの明かりに照らしてページを繰った。幼い日々。
古い本をおさめられた書庫はいつでもひんやりと冷えていて、世界の片隅にできた隠れ家のような静寂の匂いがした。そして高い壁の上には、四角く切り取られた天窓があった。
アルフォンス・エルリックは、かつて禁忌に手を出し、その代償として体を失った。
彼は言葉をくりかえす。
大丈夫、ここにある、ここにいる、ここにいる。
冷たいはがねの体、ありがとう、
おまえはここにいる、ありがとう。
だから僕はまだ、兄の隣にいられるのだ。
アルフォンスは目を閉じる。
気づくと、目の前に白い扉があった。
その向こうに少年が座っている。膝の上に本を広げているのがわかる。まだ柔らかな輪郭を残した、幼い姿だ。
彼が誰なのか、アルフォンスは知っている。
「ハロー、アルフォンス・エルリック。
長い散歩だったね?」
金色の髪に、青みを帯びた鈍い色の瞳をしたちいさな少年は、持っていた本を閉じてにっこりと微笑んだ。
鎧姿のアルフォンスは少年を前にして立ち止まる。がしゃん、と重い音がした。
「今度の散歩はどうだった?」
アルフォンスは頷く。少年の手にしている本には光りが乱反射して、まっすぐに見ることができない。
「いろんなものを見たよ。
外は五月でね、石畳の淵に花が咲いていた。子猫が道端で毛づくろいをしていて、食堂からはお昼時のいい匂いが漂ってくる。ヴァイオリン弾きの男の人が街角で演奏をしていて、それにあわせて女の人が踊ってる。歌う人もいる。子供たちは声を合わせて、はしゃいで足を踏み鳴らす。大人の男の人が隣の女の人を誘って、踊りの輪に加わる。僕たちは少し離れた屋台に座ってそれを見て、兄さんは珈琲を頼んで飲む。僕はいい匂いのする珈琲の湯気を見ながら、ミルクもいれなよ、って兄さんに小言を言うんだ」
「そう。きみは楽しかったんだね?」
「うん」
鎧の少年は頷く。微かに、けれどはっきりと。
「楽しかったよ。アルフォンス」
少年は、鈍い色の目を眇めると、幼い仕草で笑った。嬉しそうに。
彼の柔らかな、こどもらしい曲線を描く手が本のページを開く。それは眩しくて、一瞬目を瞑ってしまいたくなるほどのひかりの乱反射にあふれている。見ることは出来ないけれど、アルフォンスは知っている。あれは五月の絵だ。五月の、美しい街角の絵だ。
幼い姿をした少年は、本を閉じた。ちいさな手を伸ばして、天井を指差す。
そこには天窓が穿たれていて、黒く切り取られた空は滴るように光りを落とし、埃っぽく黴臭い、古い書庫独特の匂いがする。アルフォンスはそれを知ることはできないけれど、その感覚を確かに知っている。
そして傍らには、小柄な少年の姿がある。赤いコートを羽織って、片膝を立てて座って、本を読んでいる。三つ編みにした金色の髪に午後の光りが落ち、硝子を砕くように静かに反射して揺れている。
彼は目をあげて、自分を見る。巨大な鎧の姿をしたアルフォンスを昔と変わらない目で見上げて、そして呼ぶ。どうした、アル、何かあったか?
空そのものみたいな光りが落ちる窓、切り取られた空、埃っぽい空気、黴臭く懐かしい古い本の匂い、くっきりと落ちる窓枠の黒い影、金色の光りを反射する兄の声。伸ばされ、手に触れる、白い手袋越しの低い体温。
アルフォンスはそれを、全身全霊をかけて信じている。すべての感覚を失い、眠りを失い、人としての機能がどんなに損なわれても。
アルフォンスは手を開き、兄の掌を受け入れる。その重みに、じっと耳を澄ますような真摯さで思い起こす。かつてあった、兄の手の感触を。
「なんでもないよ、兄さん」
そうか、とエドワードは頷く。そうだよ、とアルフォンスは頷き返す。
それならいい、と呟いて、エドワードはもう一度手にした本に目を落とす。
午後の陽射しは、まだ高い位置から静かに降ってきている。
アルフォンスはそれを見上げながら、集中すると周りが見えなくなる兄に、きりのいいところで夕食を食べさせてやらなければ、と思った。