ささのはさらさら
雨が降らなかっただけましだな、と思いながら、菊は手の中の湯呑みを忙しなく弄んだ。ただぼんやりと夕涼みを楽しんでいたいのに、先程から背中に貼り付いたままの大きな子供はそれを許してくれない。
もう何度めかわからない嘆息が、背後から菊の耳朶を掠めた。項に当たるレンズのフレームが肌に食い込んで、とにかく痛い。
「・・・・・・ちょっとだけ離れていただけませんかね」
「いやだ」
懇願を滲ませながら零した言葉は、伸し掛かる巨大なおんぶお化けによって即座に斬って捨てられた。その間、およそ0.3秒。溜息を吐きたいのはこちらの方である。
「あのですね、アルフレッドさん。私、いいかげん重いんですけれども」
いくら涼しいと言えども、そこは七月の陽気である。かれこれ二時間以上もべったりと引っ付かれていれば、普段代謝の悪い菊とて汗まみれにもなるというものだ。
縁側の端に座る菊の腰を無駄に長い足で挟み込むようにして、アルフレッドはのっそりと覆い被さってきている。そのうえ腕は縋りつくように菊の首に廻しているのだから、端から見ればまるで不恰好なコアラの親子状態だろう。
「――――君がお祭りをやるって言うから来たんだぞ」
表情など確認せずとも十分に不貞腐れている声色で、アルフレッドが低く呟いた。
「立派に七夕のお祭りですが。何か不満でも?」
「こんなのお祭りじゃない!」
癇癪を起こしたような言葉と共に、肉の薄い肩口にどすんという衝撃を感じた。そちらをちらりと横目で窺えば、退屈さを隠そうともしないアルフレッドの空色の瞳にぶつかる。衝撃の正体は、我が物顔で菊の肩を占領している彼の顎だったらしい。
「お祭りっていうのはもっと賑やかで楽しくなくちゃいけないんだぞ」
「七夕の歌でも歌いましょうか?」
「そんなのいらないよ」
「・・・・・・そうですか」
ぷい、と視線を逸らしたアルフレッドの少年のような横顔を眺め、菊は内心でやれやれ、と零す。
構って欲しいならそうとはっきり言えばいいのだ。普段は頼んでも読んでくれない空気を、こんな時ばかり慮るのはいかがなものなのか。
「あーあ、こんなことなら家でゲームでもしていれば良かった」
あてつけがましく吐き捨てられた言葉に、菊はぴくりと肩眉を上げた。今のはちょっと、聞き捨ててならない。
「私と二人でいるのがお嫌なら、他に誰か呼べばよかったですかね」
そうすればさぞかし賑やかだったでしょうと、思わずつけつけと言い放ってしまう。
「誰もそんなこと言ってないだろう」
「だってあなた、楽しくないんでしょう?」
「・・・・・・」
ぐっと言葉に詰まったアルフレッドを見て溜飲が下がったのはほんの一瞬で、菊は自分が言った科白を直後には後悔していた。
(こんなはずじゃなかったのに)
本当なら二人で短冊を書いて、ゆっくりと穏やかに過ごしているはずだったのだ。それがどうして、こうなってしまうのだろう。
お星様に願い事を、なんてロマンティックなことを望んでいるわけではない。それにしたってもう少し静かに語り合うとか、そういうことはできないのだろうか。
「別に、他の奴らなんかいらないだろう」
唐突にアルフレッドが口を開いた。
「どんなにたくさん人がいたって、楽しくない時は楽しくないんだから」
「あなたは何がそんなに不満なんでしょうねえ」
「菊が俺を無視してるからじゃないか!」
「・・・・・・無視なんて、してませんけど」
「だってさっきから全然こっちを向かないだろう」
「それが不満?」
「――――不満じゃない、そんなのは駄目なんだぞ」
不貞腐れて言い切ったアルフレッドを見つめたまま、菊は言葉を失った。
(駄目、ときたか)
なんともわかりやすい独占欲である。
「じゃあ――――」
溜息を吐きつつ上体を巡らせ、膨れっ面のアルフレッドを正面から覗き込む。
「こうしていれば、楽しい?」
こつんと合わせた額は、拍子にずり落ちかけたアルフレッドのレンズをより一層押し下げた。至近距離で見詰め合う瞳が、互いの色を映してくすぐったい。
「・・・・・・楽しいに決まってるじゃないか」
憮然と返ってきた答えに、菊はぷっと噴き出した。単純すぎる。
「ならば、ずっとこうしていましょうか」
「それがいいと思うんだぞ」
くすくすと笑みを漏らす菊へ眼差しを更に尖らせながら、アルフレッドは不遜に頷いた。
(かーわいいなあ・・・・・・)
拗ねていようが単純だろうが、どうして彼はこんなにも可愛らしいのだろう。自分よりもよほど大柄な男を捕まえて言うことではないが、菊は目の前のアルフレッドを衝動的に抱きしめてやりたくなった。
「アルフレッドさん、今日は織姫を彦星が、年に一回の逢瀬を果たすお祭りなんですよ」
「年に一回?」
「そう、年に一回だけ」
あいにく天の川は見えませんが、と微笑めば、向かいに座るアルフレッドが嫌そうに片目を眇めた。
「俺は年に一回なんて嫌だぞ」
「ええ、私もごめんです」
アルフレッドとそんなことになれば、次の年には自分はきっと干乾びてしまっているだろうと菊は思った。
「ねえ、アルフレッドさん」
どんなに頑張っても毎日は決して会えない子供は、雲の向こうの星たちにどんな希みを託すのだろうか。
「今一番欲しいものは?」
願わくば、それが自分と同じでありますように。そんなふうに考えながら、菊はアルフレッドの胸に頬を押し付けた。
「そんなの決まってる」
どうか。
返事を待つ菊のつむじに、アルフレッドの唇がそっと落ちてくる。
「君」
耳の付け根まで赤く染めた子供の聞き取れないほど小さな囁きに、菊はもう一度だけ、笑った。
『来年も、一緒に空を見られますように』