その宿命は彼女を選んだ
――私は救世主などではありません。悪魔の子を孕んだ魔女なのです。
いつものように空を見上げていたミレッドの唇から紡がれた言葉は、常に無いものだった。
それを黙って聞いていたジームは「ミレッドは何を馬鹿な事を言っているのだ」と思った。
彼女はキー・スピリットに選ばれた正真正銘の救世主だ。しかも、まだ赤子だった彼女を見出だし何処からか連れてきたのは、亡くなって暫く経つ今でもジームの憧れの存在である父なのだ。疑う余地がない。
ミレッドの純潔が汚されたという事はまずないだろう。彼女の部屋には精鋭を警備に配置しているし、そもそも幹部クラスの者以外は気安く近付けない場所だ。誰にも気取られずに入り込めるはずがない。内部にそのような狼藉を働く不埒者がいるとも考えにくい。
心労に由来する悪夢を見たのだろう、というのがジームの見解だ。
ジームが会議でこの話を出すと、珍しく出席していたギトラが顔色を変えた。と言っても、顔の上半分を隠す仮面を着けている為、その変化はわかりにくい。血を分けた兄であるが故にわかったのだ。
ギトラはミレッドを救世主ではなく一人の少女として見ている。そして個人的な感情から入れ込んでいる。
いつ頃から特別な感情を抱き始めたのか。何かきっかけはあるのか、それとも幼い頃からの交流で自然に培われたのか。ジームは何も知らない。ギトラの想いの深さがどれほどなのかも。
ギトラがミレッドに手を出した可能性もゼロではないのだろうが、ジームは馬鹿馬鹿しい考えだと一笑に付した。生真面目なギトラの性格はよく知っている。
ともかく、ギトラにならばミレッドからもっと深く切り込んだ話が引き出せるかもしれない。
会議が終わりムーヴ・シャードで移動する弟の背中を見送りながら、ジームの胸中ではあらゆる可能性を想定した対策が練られているのであった。
ギトラは一人、パイプオルガンを前に佇んでいた。
先程の会議の最中にジームが話したミレッドの奇妙な言葉が頭を離れない。
ギトラも彼女から似たような事を聞かされた経験があった。
――私は夢の中で、裸で暗闇に横たわっているの。何故かはわからないけれど、手も足も重くて体が動かせない。そうしてじっとしていると、私の体に誰かが触れる感覚がある。どんなに目を凝らしても、何も見えなくて真っ暗なまま。それでも、何かが私の体を触ってくる。そっと撫でるみたいに優しくて、だんだん眠くなってきて……。母親は眠ろうとしている赤ちゃんの背中を弱い力で叩いたり撫でたりすると聞きました。あれと同じだと思うんです。
――目を覚ます寸前、ほんの一瞬だけ、私に寄り添ってる誰かが見える時があるんです。……その人は人間じゃない。誰も見た事がないような、恐ろしい怪物でした。
その夢はここ数ヶ月の間に見るようになったらしい。たまにしか見ないそうだ。
そういった詳細をジームが聞いていたら「それはきっとタスカー様だ。ミレッド様はタスカー様に見初められたのだ」とでも言って喜びそうな話だ。
ギトラは夢の中の怪物を「ミレッドの心が生み出した想像上のタスカー」だと思っている。自分の立場、背負った宿命。それらの重圧が曖昧な形となって現れたのだと。
ミレッドを閉じ込める全てのものから解き放ちたい。ギトラはずっとそう思ってきた。
あの部屋から連れ出して、何処かもっと綺麗な空が見られる地へ行きたい。細い肩に重く圧し掛かる大義から自由にしたい。
だが、ミレッドは夢の中でまで運命に縛られている。しかも「悪魔の子を孕んだ魔女」などと口にしたという事は、怪物の行為はおぞましい方向に進んでいるのだろう。
(僕にはどうする事もできないのか……?)
ギトラは唇を噛みながら、オルガンの鍵盤に指を走らせた。
ギトラが演奏するパイプオルガンの音が聞こえてくる。その時ミレッドは、夜がないタスクの空を眺めていた。
(あら……?)
ミレッドは首を傾げた。ギトラが苛立っているようだったからだ。曲はいつもと同じものだが、今日は何だか音が荒々しく感じられる。
瞼を閉じて、彼がパイプオルガンを弾いている姿を想像した。
何か嫌な事があったギトラは、鍵盤に指を叩きつけるようにして激しく弾いている。目元を覆う仮面の下では、滅多に見せない秀麗な顔が歪んでいた。
それはミレッドにとって、ひどく寂しいものに思えた。
作品名:その宿命は彼女を選んだ 作家名:ナオリ