黄昏ハニー
教室でひとり机に向かって問題を解いていると、前方のドアが開いて臨也が現れた。よりによって面倒なのが来たな、と思いながら、一瞥しただけで問題へと戻る。
「なに、まさか居残りさせられてんの」
軽い笑い声を立てながら、臨也は静雄の机にまでやって来て、机の上にあるプリントを覗き込んだ。
「うわぁ、これはまたシズちゃんが解けなさそうな問題ばっかりだなぁ。なんでこんなのやってんの?テストなんかなかったよね……ああ、日頃の行いが悪いから?」
「誰のせいだと思ってんだ」
むっとする静雄に、臨也が引いた気配はなかった。それどころかなにが可笑しいのか、肩を揺らしているのが空気でわかった。
「俺のせいじゃないことは確かだよ。街灯を歪ませたのは、俺じゃなくてシズちゃんだ」
昼休み、いつものように臨也とちょっとした言い争いになり、その苛立ちをそばにある街灯にぶつけた。加減して軽く殴っただけのつもりだったのに、街灯は、折れはしなかったけれどかなり傾いてしまった。少し軟弱すぎやしないか?静雄に殴られたぐらいで傾いていては、地震が起きたら一発で終わりだろう。
確かに物に当たった静雄が悪い。だけどそもそも臨也が、常に二言三言多いその口を閉じておけば、静雄だってその行動には出なかった。おかげでその罰として担任の専門科目である物理の課題をするはめになったのだ。これは十分臨也にも責任があるだろう。だけど実際教室に居残りをさせられているのは静雄だけだ。
(納得いかねぇ)
要領のいい臨也は、いくらでもリスクをくぐり抜ける術を持っている。
「大変そうだなあ。手伝ってあげようか」
臨也の指がプリントをつまみ、ひらひらと揺らした。
「いらねぇよ。返せ」
引ったくるようにプリントを奪い返し、問題に向き合い直す。どれもこれも日本語で書かれているのか?と思うほどわけがわからない。問題の意味すら理解できない。だけど終わるまでは帰るなときつく言われている。間違っていてもいいからとにかく解答欄を埋めなくては帰れない。
「でもさ、シズちゃん頭そんなによくないし、物理苦手でしょ」
「その頭よくない奴と同じ学校に通っているのはどこのどいつだよ」
「俺は理由があってここに来たんだよ。ここしか来れなかったわけじゃない」
「へー、あっそ」
理由がなんであろうが、今は静雄と同じ場所にいるのだから、そんなことを言っても意味はないだろう。
だけど実際、臨也は頭がよかった。授業中は静雄以上に不真面目で、出席していないことも多いのに、試験では常にトップか2位だ。この様子では家で勉強に励んでいるとは想像できないのにできるのは、元の頭がいいからに他ならない。
静雄たちの学年で、成績の面で新羅と臨也以外が争っているのを見たことがない。新羅も臨也も十分都内で有数の進学校に行けた学力は持っている。なのにふたりともなぜか来神学園にいる。
その頭脳をなぜもっとまともな方向に役立てないのだろう、と思うけれど、臨也にとっては愚問なのだろう。きっと。そんなまともな考えがあったら、こんな性格にはなっていないはずだ。
「そこ、間違ってるよ」
「あ?別にもう間違ってたって……おい、なにしてんだよ。どけよ」
臨也がこちらを向いて静雄の机に腰をかけ、もう一度プリントをさらっていく。
「降りろって言ってんだろ。邪魔なんだよ」
臨也は静雄の声など聞こえていないかのように、プリントを眺めている。ちょうどそのプリントが壁になり、下から見上げる臨也の顔が見えなかった。
「これ、一問目から全部間違えてるけど。テストなら0点だよ、0点。普通狙っても取れない点数だよ。これってまた再提出になって、馬鹿みたいに無駄な時間を過ごすことになるんじゃないの?」
静雄は大きなため息を吐き出した。
「それならそれでいい。とにかく俺は、今日は早く帰りてぇんだよ」
いいから返せよ、と手を伸ばしかけたら、その腕のすぐ脇を通って、臨也の左足が静雄の椅子の背もたれに届いた。小さな衝撃が静雄の体に伝わる。
白いプリントの横から、臨也の顔が現れた。にっこりと笑っているけれど、どこかうっすらとした冷ややかさがあった。
「へぇ。シズちゃんは俺との時間よりも優先したいことがあるんだ?妬けるなぁ。シズちゃんがそう思うくらいのことだから、弟くんかな?」
窓から入る西日が教室を橙色に染め、それは臨也にも降り注ぐ。昼間よりもよほど温かみのある光は、整った臨也の顔を一層引き立てていた。赤い目に柔らかな色が溶け込んで、ついその色に見入ってしまった。
逢魔が刻って言ったっけ。
黄昏時には魔物に出会う、と誰かが言っていたのを思い出した。誰だっただろう。新羅か、門田のどちらかだ。
「……てめぇがなにに妬くっていうんだよ。そんな殊勝な感覚持ってねぇだろうが」
臨也がなにかに嫉妬している場面を見たことがない。執着も独占欲も感じられたことがない。臨也はなににも縛られない。静雄と違って。
臨也が短く笑った。
「やだなぁ、シズちゃん。俺だって妬くよ。なんていったって、シズちゃんが目の前にいる俺よりも弟くんに会いたがっているんだからさ」
臨也の言葉はいつも薄っぺらい。本音の上に、幾枚もの嘘が重なっている気がする。だからなかなか信じきれない。それでもこういうことを言われるたびに、心の片隅の片隅のどこかで安堵している甘い考えの自分がいることに、もう気づいていた。
「俺に答えを聞いたほうが、早くその大事な弟くんに会えると思うけど?」
誘うように、臨也の唇が笑みを形作る。
その唇に触れたときのことを思い出すだけで、首の後ろがちりちりとする。味わいたくて仕方がなくなり、衝動を抑える理性が端から崩れていく。
(くそ…)
いつもそうだ。そうなってしまっては無理だった。静雄が抗う術はどこにもない。臨也の誘いに乗ることが不本意だったとしても、本能は正直に欲しいものをわかっていて、手を伸ばしたがっている。
静雄は無言で立ち上がり、臨也の首を乱暴に掴んで唇を重ねた。
「ん……」
舌を入れると、待っていたとばかりに臨也のものが絡んでくる。上唇と下唇を交互に食み、舌を吸い上げながら、口づける。首は持ったまま唇を少しだけ離すと、わずかに濡れた目をした臨也が言った。
「キスするごとに答えを教えてあげたほうが効果的かな」
「それは、めんどくせぇ教え方だな」
そしてまた口づける。何度も、角度を変えながら何度も。このプリントに正しい答えが埋まるまで、どのくらいかかるだろう。その頃には、すでに担任はいないかもしれない。体中に、甘さが広がっていく中でぼんやりと思う。
柔らかい唇。
誘う目。
ひっそりと吐き出される息。
先を促してくる足。
憎たらしいのに、その存在に魅入られる。離れられない。
黄昏に出てくる魔物は、きっと臨也に似た姿をしている。