ココロのありか
G8会議の始まる直前、イヴァンは己の心臓がないことに気づいた。
(やだ、どこで落としたんだろう)
今朝は慌ただしかったから、もしかしたら部屋に落としたのかもしれない。
幸いにも今回国々が泊まっているホテルと、会議が行われる建物は隣同士となっている。
今から急いで戻れば、会議には間に合うだろう。その幸運に感謝しながら、イヴァンは慌てて会議室を飛び出した。
廊下へ出ると、アルフレッドと菊が仲良くおしゃべりをしているのが目に入った。アルフレッドは大げさなリアクションで菊に抱き着いたり、頬をよせたり忙しく、こちらの事など気づきそうもない。
二人の後ろをこっそりと通りながらイヴァンは、不思議でしかたがなかった。いつもならこんな光景を見れば胸が痛くてたまらなくなる。けれど、今は全然何も感じないのだ。
部屋に帰ってみれば、ベットの横にイヴァンの心臓は転がっていた。慌てて胸に嵌めようとするが、ふと先ほどの出来事を事を思い出す。
あの時胸が痛くならなかったのは、きっと心臓がなかったからだ。ならばこれを胸に嵌めなければ、もうアルフレッドに振り回されることもなくなるのではないだろうか。
心臓をベットの横の引き出しにそっとしまうと、イヴァンは何事もなかったかのように部屋から出た。
会議は滞りなくすすんだ。
アルフレッドに見つめられてもドキドキしなかったし、彼が他の国、たとえばや菊やアーサー、と親しげに話していても胸の中は凪のように静かだった。
これからアルフレッドと会う時は心臓を外しておこう。イヴァンはそう決心する。
そうすれば彼と触れ合うたびに激しく波打つ自分の心臓も、いつかは凍ってしまうだろうから。
会議が終わり、会議室から出ようとすると、突然後ろから腕をつかまれた。アルフレッドだ。
「何?」
「会議のあいだずっと思ってたけどさ、君顔色が悪いぞ」
そう言いながらアルフレッドはイヴァンの頬に手を滑らせ、額を合わせてくる。いつもならこんなに近くにアルフレッドの顔があれば、イヴァンの心臓はうるさく暴れ出す。けれど、今はことりともせずに、胸はしんと冷えたままだ。
「イヴァン、どうしたんだい!?すっごく冷たいぞ!まるで、」
「死体みたい?」
不吉な事を言って、冷たく笑うイヴァンにアルフレッドはどきりとする。
それは、まるで二人が戦争をしていた頃のような表情だ。
「実はね、心臓を部屋に置いてきたんだ」
「置いてきた?心臓を?なんでそんなことを!?」
「…いろいろとめんどうだからだよ」
何の感情もこめずにそんなことを言うイヴァンを見て、アルフレッドは急に真剣な表情になり、強い力で彼の腕を引っぱった。
「来い!」
「いたっ、ちょっと、やめてよ」
抵抗しても、より強い力で引かれすぐに無駄だと気づく。
心臓が無くても痛覚は正常らしい。痛い思いをしたくなくて、大人しくアルフレッドの後をついて行く事にする。
アルフレッドの後ろを歩きながら、イヴァンは彼が一体何を怒っているのか不思議でしょうがなかった。
そうして着いた先はなんと、イヴァンの部屋だった。
「鍵は?」
「は?何言ってるの?」
「いいから」
「やだよ。君を部屋に招待した覚えは無いんだけど」
いらいらした様子でこちらに手のひらを差し出すアルフレッドに、再び抵抗する。らちがあかないと思ったのかアルフレッドは彼のコートのポケットを無理やり探った。
果たして、鍵はそこにあった。
「ちょっと、勝手に開けないでくれる?」
イヴァンに答えることなく、アルフレッドは扉を開けると無理やり彼を部屋の中へと押し込んだ。
「いった、君一体何がしたいの?」
「心臓はどこだい?」
「え?そこの引きだしにいれてあるけど……」
その言葉をきくとアルフレッドはためらうことなくイヴァンの心臓が入った引き出しを開け、それを取り出した。その突然の行動に驚いたのはイヴァンだ。
彼に心臓をつかまれたのを見た途端、何もないはずの胸がぎゅっとちぢまった様な気がした。
「やだ、やめてよ、僕の心臓に触らないで!」
「服、脱いでくれよ」
「へ?」
イヴァンの懇願に眉ひとつ動かさずに、アルフレッドは淡々と告げる。素直に脱ぎそうもないことは、最初からわかっていたのか今度は答えを聞くことなく、片手で器用にイヴァンのコートをはぎにかかる。
「待って、待ってよ。何しようとしてるの?」
「何って、君の心臓をはめてあげようとしてるんだぞ」
シャツのボタンをはずしながら告げられた言葉に、イヴァンはぞっとした。そんなことをされたら、心臓は破裂してしまうのではないか。冗談ではなくそう思う。けれどこのアルフレッドに抵抗しても無駄だということは、これまでの事からも明らかだった。
「自分で、自分でいれるから。お願い、ちょっと待って」
そう言ってアルフレッドの手から心臓を奪おうとすと、彼は意外にもあっさりと引き渡してくれた。けれどその瞳は、ごまかしなど許さないというようにこちらをじっと見つめている。
(……とりあえず言うことを聞いておこう。また次にアルフレッド君と会う時はこっそりと取り出せばいいや。顔色がばれないようにウクライナから化粧を借りなくっちゃ)
そんなことを考えながらそっと心臓をはめると、とたんに胸が激しく波打つのを感じた。
(これぐらい何でもない風にしなきゃ……)
そう思い一つ深呼吸した途端、違和感に気付く。
――何これいつもと……違う?
今日、アルフレッドと目が合ってときめいたこと、さっき心配してくれて本当は嬉しかったこと、怒っていたアルフレッドが少し怖かったこと、嫌われたんじゃないかと思ったこと、まるで離れていた時間をなぞるかのように心臓は動き出す。予想もしていなかった事態にイヴァンは思わずしゃがみこんでしまう。
「イ、イヴァン、大丈夫?胸が痛いのか?」
心臓をはめたとたんに、胸をおさえて苦しげにうずくまるイヴァンを心配そうに伺うアルフレッドに、ろくに返事もできない。
今この心臓が思い出しているのは、アルフレッドが菊と話していた時のことだ。
――いやだ、他の国と仲良くしないで。僕を無視しないで。
胸の痛みにたえられなくて、イヴァンは思わずアルフレッドの腰に縋り付くように抱きついてしまった。
「一人に、しないで」
腕の中のアルフレッドは一瞬固まったあと、強く抱きしめかえしてくれた。そのことを、この愚かな心臓はうれしいうれしいと飛び跳ねて喜んでいるのだった。
どれくらいたったのだろう。
冷静になるととんでもないことを口走ったことに気づく。抱き合ってることが恥ずかしくなりイヴァンはもぞもぞとアルフレッドから離れようとするが、その腕の力は弱まるどころかより強く抱きしめられる。
「……離してよ」
「ダメだよイヴァン。君を一人にするつもりはないからね」
「ちが、違うよ!あれは僕の心臓が勝手に言ったんだからね」
そう言うとふはっとアルフレッドは笑った。
「それはすごい愛の告白だな!」