おしまい
私は桜の木の下で眠る『薄桜鬼』その人が、先ほどから動かないことが酷く気がかりでした。春の日の空は薄い蒼色で、何年か前まで毎日見ていた浅黄色の隊服を思い出します。
あの春の日、この場所だけが嘘のように穏やかで、そんな夢のような場所に、鬼が現れて事だけが現実そのものでした。
「土方さん、」
彼は静かに目を閉じて私にもたれかかっていました。役者のように整った顔立ち。男性なんていくらでも見慣れているであろう吉原の太夫をしてそう言わしめた容姿は、私の不安を書き立てるのでした。まるで死んでいるみたい。そんな不謹慎なことをいえるほどに、私の肝は据わっていません。
冗談はともかくとして、静かに眠っているその様子は彼らしくどこか凛としたものでした。ですが、冷静に考えると、彼は眠っているのではないのかもしれません。もしかしたらこの人はわざと返事をしないでいるのかもしれない。彼が私にかけている体重や温かさは、彼が私に甘えている証であって、それはひどく酷く心地いいものでありましたが、同時に私の不安を煽るものでもありました。
彼の寿命は直に尽きる。
この国に残された武士として、その誇りを守るために振るわれた力は、彼の命を削りつづきました。この世でただ一人のまがい物の鬼、羅刹。しかし、彼は本物の鬼だと認められたのです。この世で最も誇り高い鬼が彼に『薄桜鬼』の異名を授けた。
今でもそのときのことを思い出すと鳥肌が立ちます。たった一閃。しなやかに動く体。ほんの一瞬。赤色の液体が流れ落ちて・・・
その称号の美しさと、不吉さに、背筋が震える思いがしました。
そうしてその鬼も私たちの元から去っていきました。鬼の姫の行方も知れず、もう本当に私が昔話が出来るのは彼しか居ないのです。それでも、そのことを悲しい、と彼の前で言うことはしません。
「返事をしてください・・・歳三さん」
それでも彼は返事をしてはくれないのでした。部下の手前、仕事中は彼を名前で呼ぶことはないのです。だから名前を呼ぶことは、私から歳三さんへの最終兵器のようなもの。歳三さんも名前で呼ばれるのはお好きなようで、名前で呼んだときは優しく接してくれるのです。
「歳三さん・・・歳三さん?」
不意に彼の体温と重たさが私の体から消えたことに、私は随分と驚きました。あわてて、彼の居た方に振り向くと、そこには
彼の姿が無かったのです。
「・・・歳三さん」
涙がこみ上げてきました。そしてこの状況に追い込まれても、不思議冷静な自分が居ることに驚きました。
振り返った先にあったのは、白い灰の山でした。ただ、確かにそこにあったはずの山も、風に流されて小さくなっていきました。そのことに気付いた私は、あわててその灰を捉えようと手を伸ばしました。
「・・・あ・・・」
私の手に収まることすら許さずに、灰は宙へと散っていきました。思い出すよすがにする物の存在さえ許さない。それがあの薬を飲んだものに与えられた罰だというのなら、彼らが犯したという罪は、どれほど深いものなのでしょうか。
人であることを捨てること。大切なものを守ること。
時に、その二つが等号で結ばれるというのなら。
人であることを捨てるのが、罪ではないと言い切ることは出来ません。ただ、彼が人であることを止めたのは、私のためだけではないということはよく知っていた。
そこまで考えて、ようやく私は悲しさで満たされていきました。涙が溢れてとまらない。そうなることは初めてではなかったけど、それでも酷く心地の悪いものでした。いっそこのまま枯れ果ててしまいたい。もうこの先、残された最後の一人として生きるぐらいなら、このまま命を終えてしまいたい。そう思わなかったのは、この命は彼が命を賭して救ったものだからなのです。
息を大きく吸って立ち上がる。そのまま桜に背を向ける。桜の木は、人の命を吸って美しく咲き誇る。
薄桜鬼はもうここにはいないのだと。