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助けてヒーロー

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助けてヒーロー

「ルリさん、コーヒー」
「あ、ありがとうございます」

コーヒーを受け取り、そっと口をつける。ミルクたっぷりにお砂糖二杯。ルリの好みに合わせてつくられたコーヒーになんだか照れくさくなる。
幽はルリのそばに座ると、読みかけの台本を取り出し、もくもくと読み始める。ルリも己の台本を読んだり、独尊丸と遊んだりと、お互い好き勝手なことをしていて、二人の間にこれといった会話はない。
たまにぽつり、ぽつり、と話すルリの言葉に幽が相槌を打つくらいだ。
こんな自分たちが本当に恋人同士といえるのか、ルリにはわからなかった。
けれど、幽といると胸が温かくなった。凍ってしまった心がじんわりと溶けていくような心地すらした。
ルリは、ずっとこの時が続けばいいと思っていた。

けれど、血塗られた過去はそれを許さないかというように、ルリの肩に手を置くのだ。

最初はただのストーカーの仕業かと思っていた。
ルリが普通の女の子であれば、それはとても恐ろしいことだっただろう。けれどルリは“怪物”だ。普通の人間には傷一つつけることはできない。そう思っていた彼女は最初、ストーカーに対して楽観視していた。警察や、事務所の人にまかせておけばいいだろうと考えていた。けれどその思いは一枚の写真によって一変する。ストーカーと言われる男が送ってきたのは、ルリの体に怪物の顔が、一目で素人の手とわかる稚拙さで、コラージュされていた写真だった。
周りの者たちが、犯人の意図がわからず戸惑う中、ルリは写真を持つ手が震え、気が遠くなるのを感じた。

――知っている!犯人は、私が殺人鬼ハリウッドだと、知っているのだ。

すぐに脳裏に浮かんだのは幽と独尊丸のことだった。
もし犯人がただのストーカーなどではないのなら、一体なにをするかわからない。彼らを巻き込むわけにはいかない、すぐに離れなくては。別れを思うと身を切られるように辛いが、自分には彼らと過ごした幸せな思い出がある。
もう二度と感じられないと思っていたぬくもりを、彼らは与えてくれた。それを糧に生きていけばいい。悲しむことはないのだ。あの日々はただの夢や幻。今はただ、夢から覚めただけなのだ。

何も言わずに離れたほうがいいことはわかっていた。けれど、それではきっとやさしい幽は心配するだろう、もしかしたらルリを探そうとするかもしれない。
いいや、そんなのは言い訳だ。ルリはただ、最後に一目幽に会いたかった。

別れを告げても幽は眉一つ動かさず、こちらをじっと見つめていた。
どこか悲しんでるような雰囲気を感じるが、それはルリの願望が見せた錯覚かもしれない。
先に沈黙を破ったのはルリのほうだった

「……短い間でしたがありがとうございました。離れていても、幽平さんの幸福をずっと願っています。」

そう頭を下げて部屋から出ていこうとすると、幽は無言でルリの腕をつかみ、引き止めた。
おそらく彼は精一杯の力で掴んでいるのだろう、普通の女の子なら痛みすら感じるかもしれない。けれど“怪物”であるルリは痛みなど感じない。その気になれば簡単に振りほどいてしまえるような力だ。けれど、そんなことはできなかった。手から感じる温もりに涙が出そうになる。

「離してください」

毅然と言うつもりだったのに、弱々しく震えた声しか出ない。

「君はそれでいいの?そうやって、いつまでも過去から逃げ続けるの?」

まるでどこかの映画のような台詞を無表情に幽は口にする。もしかしたら、本当に彼が過去に出演した映画や、ドラマの中の台詞かもしれない。

「だって、しょうがないじゃないですか!?幽平さんも知っているはずです。私がしたこと、私が…人を殺したことを!
私のせいで幽平さんや独尊丸が傷つくのだけはいやなんです。私は幸せになってはいけなかったんです、わかってた、わかってたのに……」

一緒にいて癒された、自分が化け物だということを忘れられた。幸せだった。だから

「だから、さよなっんっ」

最後の別れの言葉を口にしようとした途端、いきなり唇がふさがれる。驚くほど目の前に幽の人形のように美しい顔があった。ぬるりと舌が入ってくる感覚に、とっさに幽を突き飛ばしてしまう。思わず手加減を忘れたルリは青ざめ、痛みにうめく幽にかけよった。

「だ、大丈夫ですか。ごめんなさい、あたし、びっくりして、ごめんなさい」

涙が溢れる。ずっとテレビの中の怪物に憧れていた。けれど怪物になってしまった今ではこの力が厭わしくてならない。幽は痛みをこらえて起き上がり、ごめんなさい、ごめんなざいと泣きじゃくるルリをぎゅっと抱きしめる。

「ルリさん泣かないで。ルリさんが泣くと、胸の中がざわざわする。ルリさんといると、心なんて無くなってしまったんじゃないかって自分に、いろんな気持が湧いてくるのがわかる。ちゃんとした人間になれた気がする。だから離れるなんて言わないで」
「でもっ」
「だめだよ、離れるなんて許さない。ルリさんが過去から逃げるって言うなら、僕も独尊丸も付いて行くよ。地球の裏側でも、宇宙でもどこまでも付いて行くから」

こともなげにそんなことを言い出す幽に、ルリは心底驚く。

「な、何言ってるんですか!駄目です、幽平さんは羽島幽平なんですよ?世界が注目してる実力派俳優なんですから」
「そんなこと言うなら、君だって聖辺ルリだよ。何万人ものファンがいるトップアイドルだ」
「そんなの幽平さんのほうが、」

反論しようとして、こちらを真剣な表情で見つめる幽の瞳とぶつかり、ルリはなんだかおかしくなる。こんな時に自分たちは一体何の話をしているんだろう。
ふふっと笑うルリを見て、幽も瞳を和らげた気がした。

「逃げるならいつだってできるよ。もう少し調べてからでもできる。……ねぇ、ルリさん、このストーカーはダラーズっていう組織の一員って噂があるの知ってた?」

幽の思わぬ言葉にルリは首を振る。ダラーズどころか、幽が、ルリがストーカー被害にあっていることを既に知っていたことすら初耳だ。

「社長から聞いてね、いろいろ調べてみたんだ。いつ相談してくれるのかと思ったら、いきなり別れるなんて言われてびっくりしたよ」
 
淡々と告げる幽に驚いた様子など全く見受けられない。

「ダラーズに詳しそうな人が知り合いにいてね、逃げるならその人に相談してからでも遅くないと思うんだ。ルリさんが本当に逃げたくなったら、いつでも言って。全力でバックアップするから。お金も結構持ってるし」

12億の大金を結構などと軽く言い表して、幽は立ち上がり、まだしゃがみこんでいるルリに手を差し出す。

「ねぇルリさんさっき言ったでしょ?僕の幸せを願ってるって。僕はルリさんがいないと幸せになれないんだよ。わかる?」

幽のいつも通りの何の感情もこもらない声に、どこか縋るような響きを感じてルリは思わずうなずいてしまう。

「ルリさんは僕が守るから」

兄のような力もなく、ルリよりもずっとか弱い青年は静かにそう宣言する。
それはまるで特撮映画の怪獣を倒し、町に平和をもたらすヒーローのようにルリには映った。
怪物はそっとヒーローの手を握る。

作品名:助けてヒーロー 作家名:田中 塩