錆びついた
「椿ッ!」
我に返った時には遅かった。鍛えられた脚に蹴り飛ばされた白と黒のボールは既に目前に迫っていた。え、と思う間もない。切羽詰まったチームメイトの声は耳をすり抜けていった。とっさに目を瞑った椿に凶器と化したボールが容赦なく直撃した。脳が揺れる。
馬鹿野郎ぼやっとすんな!飛んで来る罵声に、すみませんと謝ろうとして、声が出ない。よろけた足がもつれてうまく動かせず、あれ、と首を傾げる前に世界が傾いた。ぐわり。視界が回る。眼の端から黒くなる。芝の上へ倒れながら、ああヘディングすればよかったのか、などと呑気に考えた。
あのひとならそうしただろう。
瞼の上にひんやりとした感触がある。少し濡れている。うぅ、と小さく呻いて身じろぎ、自分が横になっていることに気付いた。背の下は固い。
「あ、起きた」
「、っ」
「はいストップ。動かない。安静」
反射的に起き上がろうとして、額を押さえられる。じわり、と冷たさが染みるのは濡れタオルのようだ。顔の半分を覆うようにして乗せられている。達海の気配は頭の上にあった。さわ、と吹いた風の匂いと肌に感じる太陽の熱気にここが外だと教えられる。眩しさがないのは、日陰だからか。横たわっているのはおそらくベンチだろう。脳震盪、と達海が言った。頭だし、病院行っとく?飄々とした声に怒りは感じられない。それが余計に、申し訳ない気持ちにさせた。
「…す、いません、俺…」
「うん、馬鹿」
「………すいません…………」
意識を失っていたのはそう長い間でもないらしい。頭を押さえつけていた手がなくなったので、ついでにタオルも除けた。湿った肌を外気が撫でてひやりとする。ぱちぱちと瞬きする。達海は、やはり頭の上のほうに腰を下ろしてこちらを見下ろしていた。心配している、というふうには見えない。どちらかと言うと面倒くさそうだった。決して無感動というわけではないのに、達海の目はあまり心を映さない。奥底を覗かせないから、何を考えているのかわからない。初めて会った日もそうだった。若手ばかりのチームで、レギュラーと試合をさせて。その他にもゲームでスタメンを決めたり、練習せずにカレーを作ったり。リーグの半分が終わっても、達海のやることの半分くらいは未だに理解できていないのだろう。意図がつかめないまま、気がつけば遠いところまで運ばれている。驚く椿たちに達海は笑っている。まるで全部お見通しだ、予定調和だとでも言いたげに、にやりと。それにまた椿は驚くはめになる。すごい、と思うのと同じくらい、得体が知れない。ある種のこわさが達海にはある。
ピッチでもそうだったんだろうか。昨夜のことを思いながら、椿は達海を見返した。
村越の部屋へ行ったのは有里に言われてのことだった。トレーニングルームにジャージが置き忘れてあったから届けてほしい。頼まれれば断れない性分である。夜も遅くにキャプテンの部屋へ、というのは椿にしてみれば少しばかりプレッシャーで、萎縮しながら恐る恐るノックすると、ドアは開かないまま、誰だ、と問われた。椿です、あの、忘れ物を…。…そうか、すまないな。そう言いながら、ドアはいつまで経っても開かなかった。無言のまま、入ってくるようにと椿に命じていた。逃げ出したい気持ちでノブを回し首をのばして中を窺うと、村越は備え付けのテレビの前に座っていた。膝の上に肘をつき手を組んで、じ、と画面に見入っていた。その、表情。睨みつけるように、憎々しげで、けれど熱っぽい。見たこともないようなまなざしに、思わず息をのんだ。
小さな液晶の中では緑の芝を小さな人間が動き回っている。サッカーの試合を録画したものらしかった。赤と黒の縦縞はETUのユニフォームだ。椿の驚いた視線に気づいたのか、村越は画面から目を離すと椿に向かって少しだけ笑った。苦いような顔だった。…見るか?……い、いんですか?…参考には、ならないだろうがな。
村越が見ていたのは古いDVDだった。印刷されている日付はもう10年も前のものだ。部屋に戻りさっそく再生デッキにかけた。映っていたのは、達海だった。赤と黒のユニフォームを着ていた。
すごい試合だった。椿は口の中で呟いた。濡れタオルのおかげで湿った目元がひんやりと冷たい。達海は椿からグランドの方へと視線を移していた。手元のボードに何か書いている。昨夜の達海よりも、その顔には年月がある。けれど飄々とした、とらえどころのない表情は変わっていない。
10年前の東京ダービー、東京ビクトリーとの一戦。ETUの劇的な逆転勝利は達海が導いたものだ。すごい試合だった。それ以上に、すごい選手だった。7番のエース。25歳の達海猛は、誰よりも輝いていた。紛うことなき天才だった。サッカーのすべては彼のためにある、そう言われたって納得してしまうだろう。それほどに圧倒的だった。しかしその才能は今、ピッチの上にない。
タオルを持った右手を握りしめた。
サッカーに限らず、プロのスポーツ選手なら怪我を理由にした引退はよくあることだ。身体が全ての職業で、それを欠くのだから。満足に動くことができなければ、当然思うようなプレイもできない。誰にだって終わりは来る。けれど、と思う。
「かん、とく」
なに、と達海がグランドに目を向けた答えた。その声に、なぜだか胸をつかれた。聞きなれた声である。けれど椿の耳の奥では、10年前の達海猛のあげる歓声が残っている。じわり、と目尻の熱が上がったような気がした。喉を詰まらせた椿をさすがに不審に思ったのか、怪訝そうな顔が見下ろしてくる。気持ち悪い、と遠慮のない言葉が投げつけられる。その平坦な声に、どういうわけだかますます目元が熱くなる。
ボール蹴りたくないですか、なんて、酷い台詞を吐きそうになる。それほどに、達海猛のサッカーは素晴らしかった。彼と一緒にプレイしたい、昨夜、椿は、心底そう思った。もうピッチに帰ることのない達海の才能が、心底、惜しかった。
「おれ、は」
「うん?」
あなたとサッカーしたかったです。そう言いたいのを、大きく息を吸って、こらえた。
「俺、サッカー、好きです」
唇を噛んだ椿に、ふうんと気のない返事をした達海は、しばらくして、俺もだよ、と言ったので、やはり椿は泣きたくなった。