KID
黒羽快斗は普通の高校生だった。そんな彼が怪盗KIDとして活動するには仮面をかぶる必要があった。黒羽快斗ではなくKIDにならなければならなかった。でなければ、抗いきれない夜の魔力に取り込まれてしまいそうだったからだ。初めは確かに快斗だった。快斗が怪盗KIDだった。しかし、いつの頃からか、快斗は誘惑を振り切れなくなる自分に気付いた。どっぷりと浸かり込んでしまいたくなる衝動は無視できなくなるほどに育っていた。快斗はおそれた。このままではいずれ戻れなくなってしまう、と。そう思った時、KIDが息をした。KIDは知らないうちに快斗の内に潜み、ゆるやかに侵蝕していった。そうして気がつけば、夜を駆けるのはKIDになっていた。
白い衣装に身を包み冷えた空気を切り裂いて静寂の空を駆ける、それは快斗をして、いや快斗だからこそ、思考を根刮ぎ奪い取って屈伏させるだけの魅力を持っている。だから快斗にはKIDが必要だった。黒羽快斗が日の下で笑うために、夜に囚われないために、夜に生きるKIDが必要だったのだ。
月を背にしてKIDはふむ、と考える。今宵のショーは既に閉幕、一夜限りの夢の相手はもうこの腕の中に無く、彼女の信奉者たちの下へと帰って行った。KIDの役目は終わり、後はこの羽を畳んで黒羽快斗に戻るだけ。だというのに、KIDは動かない。灯りのないコンクリートビルの上で立ち尽くしたまま白いマントがばたばた揺れる。はためく布を視界の端に置いて快斗は眉根を寄せた。彼はいったい何を思案しているのだろう、何を考える必要があるのだろう。そんな快斗の怪訝を感じ取ったKIDは顎に添えていた手を外すと口端に笑みを乗せた。白い爪先がカツン、と汚れた屋上を蹴る。ふわりと浮き上がる体、倒れ込み、みるみる落下する肢体は掬い上げるような突風に煽られてばさりと翼を広げた。風を受けて悠々と舞い上がり目指す先は快斗には分からない。
ところで、工藤新一と黒羽快斗は親友である。探偵として名を馳せる工藤新一は怪盗KIDとはライバル関係にあったが、快斗が怪盗なのだと知った彼は大いなる葛藤の末に一つの条件を出した。曰わく、工藤新一の前で怪盗にならないこと。これさえ守れば黒羽快斗は工藤新一のの親友足りえたし、怪盗KIDは名探偵のライバルであり続けると。つまるところ、工藤新一は快斗と怪盗KIDを分離させることで自らを納得させたのだ。新一にとって怪盗KIDはライバルであり犯罪者であり、黒羽快斗は稀に見る類友であり親友であった。新一は快斗を気に入っていて、そこにある友情はかけがえのないものだとも思っていた。そして怪盗KIDとの知能戦も大いに楽しんでいたし、奴を地に落とすまでは諦められないと毎回引き分けに終わる勝負を投げ出す気もさらさらなかった。要するに新一は快斗を手放したくなかったし、怪盗をそれなりに好いていた。そんなだから新一が快斗に出した条件は新一の中の線引きを確固とするにどうしても必要だった。親友である黒羽快斗を怪盗KIDに
するわけにはいかなかったのだ。
故に、リビングから見える庭にその白が舞い降りた時、新一は心底動揺した。翻ったマントが月の光を受けてほのかな輝きを纏う。柔らかい芝生の上をさくりさくりと優美な足さばきで近付いてくる怪盗に呆然とし、はっと我に返ってからは怒りで視界が熱くなった。
「てめぇ…ルール違反じゃねえか」
工藤邸は黒羽快斗の領域であり怪盗の姿で踏み入れることは許されない、許していない。約束を破った快斗を非難いっぱいに睨み付けながら新一は読んでいた本を投げ出して大きな窓を開け放した。せめて一発は殴ってやらなければ気がすまない。せっかく新一が探偵としての矜持を折ってまで妥協したというのにこの馬鹿はいったいどういうつもりなのか!
ぐ、と拳を固めて快斗を見据える。快斗はあくまでもゆったりとした足取りで、包む空気に罪悪感は欠片もない。本気で腹が立った新一は唇を噛み締めながら右肩を引いた。重心をずらし、硬く握った拳を大きく振りかぶり、全体重を籠めてその顔に右ストレートを叩き込―もうとしたのだが、それが到達する前に、快斗は新一の拳を受け止めたばかりか白い手袋で包み込んでぐいっと引いた。
「うあ、」
バランスを崩して前倒しになる新一をさらに引っ張り、力の抜けて緩んだ右手の付け根に一つずつ指先を滑り込ませて手の甲の上からぎゅっと握る。くるりと反転させた身体を全身で受け止めて、背後から抱きかかえるように腕を回した。白布に覆われた指先でそっと喉仏を撫でれば怒りに燃える探偵も流石にひくりと肩を震わせる。
「おい…快斗……?」
ゆるゆると首筋を辿り、顎を伝い、困惑に薄く開いた唇を何度も指で確かめる。執拗なまでに這う指先に流石に異変を感じた新一は柳眉を顰めた。快斗、と低く名を呼ぶ。しかし返事はなく、代わりに首許に押し当てられていた口からくつりと小さな哂いが漏れる。ぞわりと駆け巡った悪寒に新一は瞬きし、確信した。こいつは快斗では、あの親友では、ない。
「お前…誰だ」
戦慄く唇から絞り出した声は奇妙に掠れていた。無意識の緊張に口の中に酸味が広がり、そのくせ喉はカラカラだった。だんだんあがってくる息を鎮めようと肩に力を籠めながら新一は背後の怪盗を探る。囚われたままの右手に篭る力が強くなり、器用な指先はいやらしいくらいねっとりと掌を撫でる。くすぐったさにひくりと引き攣った腕の反応を嬉しがるように、首筋にふふ、とわらう吐息がかかった。
もう駄目だ。強引に首を捻り新一は怪盗を振り返った。焦点が合わないくらいの近さで、モノクルの硝子が月の光を反射しているのが見える。
「……だれ、だ」
再度、繰り返される問いに怪盗は満足そうに、隠し切れない愉悦を口元に浮かばせた。新一は目を瞠る。まるで、現場で見るような笑みだ、と。
「―――ただの泥棒ですよ、名探偵」