潤也
「潤也?起きたのか」
「………あ、にき?」
「ん?」
サンダルを脱ぎながらよいしょ、と入ってきた兄貴はカーペットの上に洗濯物を広げるとその小山の前に正座した。タオルを手にとり丁寧に畳んでいくその手付きはこの2年で毎日見続けたもので、呆然と眺めていた俺は不意に堪えきれなくなって兄貴に抱きついた。
「うわっ!」
どてっ、と後ろに倒れる兄貴の身体に腕を回して胸に顔を押し付けた。あったかくて、どくり、どくりと、微かだけれど心臓の音が聞こえてたまらない気持ちになる。ありふれた休日の午後に、俺と兄貴しか居ない家。親父とお袋の居ない家。兄貴の居る家。兄貴が、居る、家。言葉で表せない安心感にじんと目頭が熱くなって、ずるりと水っぽい洟を啜り上げると兄貴が吃驚したようにぺしぺし頭を叩いた。
「な…おい、潤也っ?どうしたんだよ?」
「あにきぃ……っ」
温度を確かめるように何度も何度も顔を擦り付ける。「くすぐったい」兄貴は小さく笑って、それでも好きなようにさせてくれた。もう止めようのない涙が次から次から溢れてきて兄貴のエプロンには立派な染みになっている。ちょっとだけ申し訳なかったけれど、やっぱり止められなかった。
だって、兄貴が、あったかい。
「いっ、嫌な…夢を…っ」
「うん」
「兄貴が…っ、いなくなっ……っ!」
口に出すとあの消失が蘇って体中の血液がさあっと凍り付いていく。怖くて怖くて怖くて寂しくて寂しくて途方もない孤独に放り出されて死にそうだった、あの夢の中の暗闇が思い出されてがたがた震えが止まらない。ぽんぽんと優しく頭を叩いて俺を宥めてくれる手はついさっきまで冷たく硬く凍ってぴくりとも動かなくて、穏やかに笑う顔はただ奇妙に安らかな表情で眼を瞑ったままうんともすんとも答えてくれなかったのだ。
「…あにき…」
「うん」
「あにきは…どこもいかないよな…?」
「何言ってるんだよ、ばか」
肯定が返ってこない事に寒気を覚えて慌てて顔を上げれば兄貴は見慣れた顔でちょっと困ったように微笑んでいる。ふと気がつくとあたりは平凡な空気でいっぱいだった筈のリビングでなく何もない真っ暗闇になっていた。
「兄貴!」
怖くなって縋りつくみたいに兄貴を抱いた腕の力をぎゅっと籠める。兄貴は小さく、笑うばっかりだった。頼りない手が俺の髪を梳く。子どもをあやすみたいに。慰めるみたいに。謝るみたいに。いやだ。やめてくれないか。精一杯の抵抗で首を横に振る俺を兄貴は諭すように呼んだ。震えながら見上げた兄貴の細い首には、ぞっとするほど白い、うつくしい十本の指が絡み付いていて俺は絶句した。
「あぁあ ああぁ ぁ」
「潤也」
兄貴が俺を呼ぶ。潤也、潤也、じゅんや。その声がどんどん掠れて、か細く、弱くなっていくのと一緒に、エプロンを付けていた兄貴の服はいつの間にか変わっていてあちこちが破れて泥に汚れてぼろぼろになってそれはまるであの時の、。
「潤也」
困ったように兄貴が笑う。その首に絡むうつくしい指は次第に力を増して、脆い喉を潰すみたいにぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりと絞めていって兄貴の顔が苦しそうに歪んでいく。指は自分の許に引き寄せるみたいにして兄貴を俺から引き離していこうとするから俺は必死になって兄貴にしがみ付くのだけれどあれだけぎゅうぎゅう抱締めていたにも拘らず兄貴の体はどこか現実味がなくてまるで幻を掻き抱いてるみたいであまりの恐怖に俺は絶叫した。息ができなくて仰け反って喘ぐ兄貴をどうにかして助けてやりたいのに俺にはその方法が分からなくて、ただただ兄貴を引きとめようと腕に力を入れるしか出来ない。兄貴を攫っていく指の向こうで白い何かがさらりと揺れたのが見えたけれど俺はそれに対抗する力がなくて、悔しくて情けなくて怖くて、泣きながら兄貴あにきと繰り返しているとうっすらと目を開けた兄貴が「だって、」と弱々しい、けれどもはっきりと聞こえる声で呟いた。
『対決するしか、ないじゃないか』
誰かが嗤った気がした。
はっと目をさました瞬間に飛び込んできたのはリビングの天井だった。緊張しきった体はいやな汗でびっしょり濡れていて気持ちが悪く、はあはあと荒く乱れた呼吸のまま俺は辺りを見回した。何の変哲もない休日の午後、薄く開けられた窓から吹き込んだ風がカーテンを揺らしている。痛いくらい静まり返った室内の空気はこの半年で死にたくなるくらい経験した。大量のアルバムが散乱した部屋でゆっくりと上体を起こすと足が踏みつけていたらしいリモコンを蹴飛ばした。付けた覚えのないテレビはそのせいだろう、画面の中では毒々しい紫に彩られた白い男が微笑んでいる。