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不安定

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「これが何か分かる?」
 船は穏やかな波の中でぷかりぷかり前へと進んでいる。向かう先は分からない。ただ、風と波の向かうまま。東の空から上った太陽は、南を通り、もうすぐ西へ沈むだろう。船の甲板、白いテーブルに紅茶のポット、椅子は無く、絶え間なく揺れる足元、羽を煽る海風と、海鳥の鳴き声。二人はそんな不安定な場所に、存在していた。
 手にしたものを軽々と上げて見せて、謎かけ遊び。遊びよりも、ずっと複雑な心情が潮のにおいを紛らわす。潮で固まってしまった髪の毛を、ムラサは指先に巻きつけながら、青の瞳だけはじっと、彼女の手の中を見つめた。分かる筈が無いと、知っていても、それでも。
「底の抜けたひしゃくに見えるわ」
「外れ。紅茶のカップよ」
 テーブルからポットを持ち上げて、注ぐ。きちんと底のあるカップからは、茶色の液体はこぼれ得ない。湯気の立ち上る、それはムラサにはひしゃくにしか見えないのに、彼女は赤い唇にそれを近づけて、紅茶を飲んでみせる。感覚なんて共有できないのだ、と当て付けるように眉毛をゆがめて。潮風と、湯気で潤んだ赤い瞳が、こちらをじとり、視線で刺す。その瞳が、肺を埋めて呼吸を奪う、溺れる水のようで、ずっとずっと嫌いだった。海の水は体を飲み込んで、抱き締めたいのに、伸ばした腕を絡め取る。
「ムラサ、あんたが見てるものなんて、結局は」
 言葉を絞るように落として、彼女はふいっとそっぽを向く。穏やかな風に、海鳥が舞い上がる。ポットと、どう見てもひしゃくにしか見えないカップをテーブルにおいて、よろよろと甲板の先へ。ざらついた手すりに手を掛ける、その羽がばたついている。赤く沈んでいく太陽に、染められた肌。風が浚いそうになった帽子を、ぎゅっと押さえる。彼女の背は、いつだって、押さえていないと帽子みたく風に盗られてしまいそうで、怖い。隣にそっと駆け寄って、同じ手すりにもたれかかる。彼女が握った手すりは塗装が剥げて、ささくれが指に痛く、冷えた鉄が爪まで冷やした。
「たとえば今目の前に見てる私だって、本当の正体は分からないのよ」
 そっぽを向いたまま、彼女は言う。顔は猿、体は虎、しっぽはヘビで、なんて彼女の風聞を知っていても、ムラサは愛らしい少女の姿が、彼女の本当なのだと信じていた。
「私には可愛い女の子に見えるわ」
 背中から、黒い髪に、そっと触れてみる。自分の色とはまた違う、赤の入った黒髪。潮風に固まったそれを、そっと持ち上げて、口付ける。彼女はひくり、肩を震わせたけれど、なされるがまま、黙っている。鳥の羽音と、鳴き声、海鳴りだけが耳を突く。揺れる羽は、左右で違って、どうやって飛ぶのかなんてムラサには分からないけれど、毒々しい色に触れた指先には、滑らかな肌触り、とても彼女らしい羽である。夕暮れの空の眩しさに目をしかめ、腰に手をやって、彼女を振り向かせる。案の定寂しげに潤ませている瞳にも、キスをした。海鳥が、高く、鳴く。咄嗟に、身を退いて、彼女は言う、見えているものだけが真実とは限らないのよ。ムラサは手の甲に小さな冷たさを感じる、飛んだのは、波しぶきか、あるいは。舐めてみる、その味はどちらにしてもしょっぱい。
「私の信じることだけが、真実なの」
 手の甲に落ちた雫は海水のしぶきで、目の前の彼女は可愛らしい女の子、ムラサはそう信じている、信じることに、決めた。沈みかけた太陽に照らされた海は、赤い。まっすぐに、青色の瞳と、赤色の瞳が見つめあう。波と同調して、定まらない視線。外したのは、やはり彼女からだった。
「それは、聖に言われたの?」
 一瞬の間、がたん、船が揺れる。ムラサの動揺は、海に、船に現れてしまう。違う、否定の言葉よりも強い表象。見えないものも、見えるものも、真実は残酷だ。
「ぬえ、私は」
「みなみつ」
 開きかけた口を、止められる。滅多に呼ばれない名前。彼女の揺れる瞳の奥深くに、絶対に埋められない寂しさがあった。信じたくなくたって、自明的な、信じざるを得ない寂しさに、ムラサは抱き締められた。温かな体の、冷えた芯を感じながら、ムラサは瞳を閉じる。視界を奪ったって、心に浮かぶのは可憐な少女の姿であった。それが、真実。
 船は穏やかな波の中でぷかりぷかり前へと進んでいる。向かう先は分からない。ただ、風と波の向かうまま。東の空から上った太陽は、南を通り、もう西へ沈んでしまった。船の甲板、白いテーブルに紅茶のポット、椅子は無く、絶え間なく揺れる足元、羽を煽る海風と、海鳥の鳴き声。二人はそんな、不安定な場所に、二人ぼっちで、存在していた。
作品名:不安定 作家名:m/枕木