HELP!
ギターを持った私に出くわすと、ちょっとがっかりしたような空気を醸し出しながら何処に行くのか、何をするのかなんて訊いてくる。いつもなら技を掛け合ったり罵詈雑言の応酬をするが、それ以外のコミュニケーションの方法が思いつけないのだ。女子と話すのが苦手な方でも無いだろうに、歯切れ悪く会話をして去っていく。ならいっそ話しかけなければ良いものを。このお人よしめ。
先輩は、ライブのときの私を別人のようだ、という。人が一面しか持って無いとでもいうのかと、そんなに私が薄っぺらい人間に見えるのかといつものノリで問い詰めてやった。らしくねーんだよ! と半ば焦ったように顔を背けた様はまだ記憶に新しい。
そんな先輩が、なぜか練習を聴いている。しかも教室にいるのは私と先輩の二人だけだ。ひさ子さんに用があるらしい先輩は、今は椅子の背もたれに腕をのせて大人しくしている。始めは物珍しそうに歩き回ってアンプやエフェクターを触っていたが、床を這うシールドに引っかかりそうになったところで首根っこを引っつかんで椅子に就かせた。わりぃ、と一言。それ以降この空間にはギターの音だけが響いている。
暗譜のために机を寄せて広げられた楽譜を眺める。手書きのタブ譜を指でなぞって昨日の練習を思い出す。所々に朱がひいてあって、細々とした自分の字が見える。とりあえず今日はギターを仕上げてしまおうと、歌は鼻歌程度にした。マイクは立てずに、手元に集中する。
時計の長針が半周しても、ひさ子さんはおろか誰も訪れはしなかった。エレキギターの尖った音の中で先輩は寝ることも出来ずに、ただぼーっと中空を眺めていた。
「はー、休憩!」
二人きりの空気に耐えかねたわけでは無いけれど、肩や腕が疲れてきたので一服を宣言する。先輩の表情に生気が戻って、私が机に置いたギターに興味を示す。
「なぁ、これ…」
「弾きたいんですか? 休憩の間なら良いですよ。飲み物買ってきますけど、壊さないでくださいね!」
釘を刺しながらストラップの長さを調整してやる。随分伸ばさないと不恰好だ。正面から頭ひとつは違う長身をを見上げて、こんなに差が有るものなのかとすこし驚いた。それからシールドは絶対に抜かないように、と注意する。わーってるよ、お前の大事なものだからな、とそれなりに誠実な返答を貰ったので、早々に自販機に向かうことにした。
「アコースティックと違ってエレキは簡単に音が出ますからね、アホでぶきっちょの先輩でもきっと大丈夫ですよ!」
コードなんてものは一つも教えずに、足早に教室を抜け出した。喉が渇いている。後にした場所からは不揃いな不協和音が響いていた。
戻ってくると、形だけは完璧なバンドマンがそこにいた。机に凭れ掛り、必死に左手の五指を奮闘させている。
「なぁ、ユイ、どうやったらこれ押さえられるんだよ。わっけわかんねー…」
「はあ? そんな簡単に弾けてたまるか! 音が出るのと弾けるのは大違いなんですよ!」
「え、あ…ごめん」
冗談めかして言ったつもりの一言は、思ったより先輩の胸に深く突き刺さったようで、きょとんとした顔と共に呆けた声が返ってきた。
野球をやっていたときいた。何かに本気になっている人に、生半可な気持ちで言葉をかけてはいけないことをこの人は知っている。
予想通りだが二人の関係に似合わない返答に、つい空気が淀んでしまう。それを払拭するために、先輩からギターを奪い返した。黙って聴いていればよかったのに、アホですね。
「全く、先輩には無理ですよギターなんて! アホはアホらしくしててください!」
「お前ほんっとかわいくねーなぁ…」
ギターを丁寧に机に置いて、ペットボトルの蓋を開けた。早く帰ってくれないかな。ひさ子さんはまだかな。調子が、狂う。
自分の調子が崩されていることに気づいた途端に、休憩を終わらす気もなくなってしまった。
手持ち無沙汰なのでペットボトルを弄ったり楽譜を眺めたりしてみるが、一向にこの状況が打破できる予兆は訪れない。逃げるのは癪だ。けれど。ああだれか、助けて。
そのとき、一つの音がした。
音は段々と連なってメロディーを成していった。
よく知っている。ビートルズのあの曲だ。
音の主は一人しかいない。さっきまでの定位置の椅子にまた大人しく収まっていた先輩だった。
覚束ない音程で音を紡ぐ。英語の歌詞なんてこのアホが覚えている訳がなく、印象的なワンフレーズを除いてはふにゃふにゃの鼻歌だ。
しょうがない、と思ってストラップを肩にかけボリュームを絞った。コードを思い出しながら頼りない鼻歌にあわせてやる。
先輩は即興で伴奏をつけられたことに少なからず驚きながら、歌うことはやめなかった。少し掠れた声が、楽しそうに教室に響く。
全く、感謝してくださいよ、ユイ様の特別大サービスなんだから。