青いカップ
昼食を病院の食堂でとり、自分の城、特別愁訴外来――病院の片隅にひっそりとある通称・愚痴外来へ戻ってきた田口は、ドアを開けた途端に流れ出したコーヒーの香りに眉をひそめた。
「白鳥さん、また無断で入った――」
文句を言いながら仕切りの向こうを見て、田口は口を噤んだ。
そこには誰も居ない。
藤原看護師が白鳥用に買ってきたカップがぽつん、とテーブルの上に置かれているだけだった。恐らく勝手にやってきた白鳥が、田口と藤原の留守をいいことに、コーヒーを飲んで帰って行ったのだろう。
「本当に勝手な人だなぁ……」
田口はため息をこぼし、白鳥のカップを手に取った。キッチンへ持って行こうとして、ふと気になり、青いそれをまじまじと眺める。
自分と色違いのカップ――。
藤原看護師が何を思って白鳥専用のカップを買ってきたのかはわからないが、バチスタ・スキャンダルやその後の脳神経外科絡みの事件、そして今回と白鳥の出入りがある度にどこからか引っ張り出されてくる。
だが、白鳥が来なくなるとすぐに、どこかへ消える。
間違いなく藤原看護師がやっていることなのだろうが、毎回捨てられるわけでもなく仕舞い込まれると言うことは、また白鳥がここへやってくることを前提にしているワケで、田口にとってはどう表現していいのかわからない不思議な感覚だった。
バチスタ・スキャンダルのその後、白鳥と同じ長い肩書きに「室長助手」なんて書かれた名刺を持たされているが、何度か厚生労働省に足を運んだことはあるものの、白鳥は中央官庁の官僚で、田口は地方都市の勤務医、基本的に関わりはない――はずだった。
だがなぜか、白鳥はよくここへやってくる。
それだけではなく、今など、厚労省で起こった出来事もまるで当然のように話してくれる。
――まったく知らなかった、研修医時代のことさえも。
田口は白鳥のカップを見ながら、思わずにへら、と笑った。
白鳥は初対面も失礼だったが、そのあとにここで診察した時も、突然、松葉杖を突きつけながら「なめんなよ」なんて言い放つような傍若無人っぷりだった。
食事代を払わされたり、関係ない仕事を押しつけられたり、白鳥と居ると気が休まることがない。
「人がいい」「優しい」なんて言われる田口も、さすがに怒って声を荒げたことがあった。……その時の反応だって、人としての良識を疑うようなものだったが。
だがそれでも、このカップが診察室に現れると、田口はなぜか嬉しくなった。
もちろん、いつも白鳥が現れる状況は厳しい。
今、この瞬間も救急救命センターには患者が運び込まれ、救命チームは疑われ、白鳥は解決の糸口を求めて病院内を歩き回っていた。事件の関係者として、そして救急精神医療責任者として、田口自身もいつ呼び出されるかわからない。
だが、それでも――。
「……白鳥さんのカップ、か」
ほのかにコーヒーの香りのするカップを見つめて、田口はつぶやきながら眦を和らげると、スリッパを鳴らしながらそれをシンクまで持っていった。手早く洗い上げて自分のカップを手に取る。
「あら、田口先生。私が」
休憩の終了と同時に現れた藤原看護師がやってきて、声を掛けてくれる。
田口は「いいですよ」と答えてカップにコーヒーを注ぎ入れ、それを持って自分の机に向かった。椅子に座りながら、思いついて、診察準備を始めた藤原を振り返る。
「藤原さん。今日も帰りにコーヒー、入れてもらっていいですか?」
「今日も残られるんですか? あんまり無茶しちゃダメですよ」
そう注意しながら、藤原はすぐにうなずいて「今日は豆を奮発しちゃいましょうか」と答えてくれた。それから一端はスタッフルームに消えたものの、なぜかすぐに、戻ってくる。
カップを抱えるようにしてコーヒーを飲む田口を、不思議そうに見つめた。
「田口先生、なぜ笑っていらっしゃるんですの?」
終わり