かわいそうなふたり
彼はよく私を殴る、最初は怖くて痛いだけで、良い年して泣きわめいてみたりしてみたけど。私よりも数倍痛そうに辛そうな顔をするそらくんを見て、そっと彼を抱き寄せた、それが一度め。
曽良くん、私がそう呼ぶと不機嫌そうに返事をする。でも私の見えないところで、彼は擽ったそうに笑った。それが二度目。
そらくんはたまに上の空になる事がある、私が無神経に呼び止めると彼は見たこともない様な顔で私に噛み付く。それが三度目。
私みたいなおじさんが、彼を好きだなと思った時。必ずそらくんは愛が欲しいと言うように、体全体で悲鳴をあげている。
そんな彼の側に居られなくなる日が近づいてきた。流れて行く月日には敵わない、私の体は朽ちる一方だ。
そんな私を見捨てて何処かに行ってしまっておくれと思うのに、実際の彼は私が伏せる床の側でじっと私を見詰めては手を握ってくる。綺麗な手だね、素敵な詩を読んでね。私がそう言うと彼はギッと睨んで掴んだ手を力いっぱい潰すくらいの勢いで握った。いたい、いたい。弱々しい私の声が一室に響く。
曽良くんはそんな私の声を聞いて、魔法が溶けたみたいな顔をして、私の手から指を外す。
「芭蕉さん…」
「なに、そらくん」
「貴方は僕が殺すんで、勝手に死なないで下さい。」
「うん、そうだねぇ」
ぶっきらぼうに笑う曽良くんの綺麗な目に日々弱り行く自分を見ると、どうしてあと10年遅く生まれてこなかったんだろうと後悔ばかりする。そうしたら、彼にこんな顔をさせずにすんだかもしれない、そうしたら自分だってもっと遠慮せずに彼に好きだと言えたかもしれない。
だめおやじめ。
もう死んでいくと言うのに、私は私を許せなかった。
「芭蕉、さん」
「うん」
「痩せましたね」
「そうだねぇ」
「こんな細い腕なら、すぐに折れてしまうかも」
「前、君に骨折られた時は、痛かったなぁ、でも」
「…でも?」
「凄く君に愛されてると、思ったよ」
「骨折られて愛されてるって?」
「…変だよね」
「変態だ」
たった一度だけ彼に抱かれた時を思い出した、セックスと言うには、余りにも幼い行為。体中にひびを入れられたような感覚だった、しかしそのひびから染み込んだのは紛れもない彼の彼なりの愛だった。
しがみついて、離さないように、彼を一人にしないように全て自分の中に流させた。
曽良くんはその後で布団にくるまった私にすがり付いて泣いた。ごめんなさい、普段の彼からでは考えられないような言葉だ。彼の折り曲げた背中には私の爪痕が残っていた、私は彼の背中を擦りながら、静かに子守唄を歌う。
「だいすきだよそらくん」
それが最後だった。
それから二人して何も無かったように師弟の関係に戻った。相変わらず彼に殴られて怒られて散々な日々を過ごしていく。
ある日私は血を吐いて、曽良くんを大層驚かせてしまった。病は確実に私を蝕んでいっている、医者が口にした時に曽良くんは酷く残酷な顔をして医者を殺しそうになった。本当の事を言え、どうせつまづいて転んで口を切っただけなんだろ、そうだろ?ねぇ、
「芭蕉さん」
私は彼に許してね、と抱きついた。泣きそうな彼に何も言えない、ほとほと私に呆れているだろうと思ったのに。
「ごめんね、許してね」
「い、やだ」
長い前髪をぐしゃっともみくしゃにして目を見開いた曽良くんは恐怖の滲み出た顔で笑っていた。
「詩を読んでくれないかな」
「嫌です、」
空が淀んで、暗く落ちてきそうだった。曽良くんはそれからずっと私の傍に居て離れようとしなかった。いつもなら、近付くなとかいろいろ酷い事を言うのに。ずるい子だなぁ、私は掠れ声で彼の名前を読んだ、死はもう私の後ろ髪を掴んでいる。
「しにたくない」
「ごめんね」
「もっと傍にいてあげたい」
体の水分を全て絞り出していくように、涙が溢れて止まらなかった。
「曽良、く」
END
息の根を止めたのは紛れも無く貴方でした。