その日は朝から雨だった
その日は朝から雨だった。
景色から色を奪い、美しい情景さえモノクロームに変えてしまう雨の中、唯一、スペインが手にしていた赤い傘だけが鮮やかだった。スペインの、そして俺も好きなトマトよりも暗く、熟成されたワインよりは軽い。そんな色をたたえた傘をスペインは片手で持っていた。
しとしと、しとしと、と止め処なく傘を叩く雨粒に紛れてしまいかねないほど小さな声でスペインは呟く。
「……ロマーノ、帰ったらちゃんと好きな子に連絡するんやで」
ああ、と返事をするのは、この静かな空気を壊してしまいそうで怖かった。首肯することで思いを伝えると、スペインは少しだけ哀しそうな笑みを浮かべた。
昨日は昼過ぎからスペインの家へ行き、遅めの昼食を摂ってシエスタをしたあと、そのまま一緒に夕食を作って、懐かしい家の中で昔のように眠った。独立してからというもの、スペインの家に行くことは一気に減った。一緒に暮らしていたときは波打ち際で止めてくれていた面倒な仕事などが津波のように押し寄せてきたのも原因の一つだった。
昨夜、夕食の席でスペインの好きな銘柄のシェリー酒を傾けながらぽつぽつと仕事の話をすると、スペインは驚きに目を瞠ったあとすぐにくしゃくしゃの笑顔を浮かべて「ロマーノも大人になったんやなあ」と言った。見ているこちらが恥ずかしくなるほど嬉しそうな顔だった。そしてそのくしゃくしゃの笑顔は俺の心をくらくらとさせた。適度に酔いが回ったような状態に似ていた。
そして俺が「そういえば」と口を開いたのは次の瞬間だ。
「そういえば、俺、好きなやつ出来た」
スペインは一瞬くしゃくしゃの笑顔を引っ込めたけれど、すぐに取り繕うように似た表情を浮かべながら「……ほんまに大人になったんやね」と笑う。けれどその笑顔はつい一瞬前のものとは全く違うものだった。笑顔の端に悲嘆をありありと浮かべた表情は、見ているこちらの心を容易に引き攣らせるものだった。
あのときとほぼ同じ表情を、一日経った今でも、浮かべている。残念というよりも哀しいというような、しかしそんな気持ちを決して汲み取らせまいと頑張っている。そんな姿を見ていると言いかけた言葉も飲み込んでしまった。
──好きなやつって、お前だよ。
飲み込んだ言葉を手渡すことが出来たら、朝から降り続く雨が止んで、スペインも笑顔になるんじゃないだろうか。それこそ俺の心をくらくらさせるほどの、くしゃくしゃの笑顔を。
けれど伝えるきっかけも術も言葉さえ知らない俺は、ただ静かに雨音を聞きながら駅に向かって歩くだけだった。今度はいつごろこの国の土を踏めるだろうと思いながら、ぱしゃぱしゃと水溜りを踏んでいく。そのときまでに言葉にならない思いを伝えられるようになれたら良いなと思いながら。
ぱしゃ、と一際大きく跳ね上がった水溜りの欠片に、沈んだスペインの表情と、同じくらい寂しそうな表情を浮かべた俺が映った。
その日は朝から雨だった。俺とスペインの心も、きっと朝から雨を降らしていた。
作品名:その日は朝から雨だった 作家名:ラボ@ゆっくりのんびり