予定調和、甘い凶器
水音に混じってご機嫌な鼻歌、彼はのん気にお風呂でシャワーを浴びている。その間に、用意してしまおうと沙樹は立ち上がった。小さな部屋の、備え付けの冷蔵庫は白い側面に幾つも灰色の傷が走っている。冷たい扉に手を掛けて、らしくもない事をしていると自覚する。笑顔で、ただ待っている、それが自分であると自分で思っている、のに。ぱか、と間抜けな音で開いた扉、そこにある凶器は確かに自分が用意した。白い箱に包まれた、甘い甘い、柔らかな凶器。小さなホールの、ショートケーキ。食卓に小皿とフォークを並べて、真ん中にケーキを配置。付属のろうそくは五本しかないけれど十分だ、ぷすりぷすりさして、ライターは皿の隣に。
「おさきー」
風呂上りなのにジーンズ、上半身は裸のままで、タオルで頭をふきふき、上げた腕の奥に茶色の毛、他人には見せないであろう部分を許されている安心感。使い終わったバスタオルを洗濯機に放り込みに、脱衣場、彼は有事の為に脱衣場にさえ携帯を持ち込む、そこで、携帯が鳴った。午前零時。扉の向こうで、彼の話し声がノイズと鳴って耳を通り過ぎる。内容は聞き取れない、けれどどうせ予想通りなのだろう。通話を終えて、部屋に戻ってきた彼の目線が、甘い凶器に止まった。
「行くの?」
言葉とは裏腹に、ライターを手にして、一本、一本、ろうそくに火をともす。我侭だった。おそらく初めての、我侭。寒くも無いのに腕が震えて、三本目に火が付かない。かちっ、かちっ、火打石が、高く響く。何も言わない彼に、反対の意味を込めて、もう一度問う、行くの? 急に高所へと引き上げられるように、血の気が引くようだ、大勢の人と、彼を裏切って、自分本位な我侭に、もはや泣きそうになりながら、彼が向かい側の椅子に座るのを見ることも適わず、火打石ばかりが響いた。今頃あの暗い倉庫では、彼の為に沢山の人間が集まって、彼が喜んでくれるかしらと尻尾を振っているのだろう。それに、彼は応えるべきで、沙樹は笑顔で送り出すべきなのだ。でも、初めて思ったのだ、彼を奪ってしまいたい、彼を、独占したい、と。凶器にもならないケーキの甘さ、に、淡く、濃くなる、石鹸の香り、男の人の香り。鼻で感じる、近付いてくる彼の腕。びくり、目を瞑る、我侭言うなと怒られるだろうか、ごめんな行って来るよと諭される、のか。ライターが、ことり、落ちる。
「行かないよ」
屈強な予定調和が、甘い香りに侵される。食卓の向こう、彼は薄い黄色のシャツを羽織る。
「あいつらが俺の誕生祝いしようとしてると思ってた?」
いつになく強張った、彼の、声。ろうそくがゆらゆら、二人の間の空気を揺らす。
「俺が、今日、ていうか今この瞬間、何歳になったか分かる?」
俯いた顔を上げる、と、器用な彼が、シャツのボタンを止めるのに四苦八苦。沙樹が我侭に怯えていたように、彼の指先も震えている。一つ、一つ、ゆっくりと止め終わるのを確認してから、沙樹は答えた。
「十八歳」
「ざっつらいと」
にこりと無理して笑って、明らかに緊張している微笑で、彼は立ち上がって、ろうそくの火が傾く、尻ポケットから手の平に小箱を取り出して、沙樹の前に、仰々しく、ひざまずく。そして深呼吸、つられて沙樹も呼吸を整える、静かに、新たな予定調和が始まっていた、小さな我侭よりもずっと大きな、幸せに似た何かが、起ころうとしている、二人しか居ない空間が、緊張で満ちる、背筋にぞくぞくと予感が走った、彼が、手の平の上、取り出した小箱をそっと開ける。甘い凶器よりも、ずっと小さく、強いもの。左手をそっと持ち上げられて、お互いに汗ばんだ手がままごとみたいで、顔を見合わせて、おそらく表情はゆっくりと無理のない笑顔に移行していく。
「沙樹、結婚してください。俺の、家族になってください」
左手の薬指に、きらり、銀色が光って、頑丈な腕に抱き締められる、震えるからだが、寄り添って、心音が一つになる。
「喜んで」
幾多の血が流れた、跡がもう消えかけている暗い倉庫を、出来るだけ明るく華やかにと今頃動いている大勢の人の存在を、沙樹はきちんと知っていた。過去なんて照らしてしまえば消える影のようなものだ、と言わんばかりに働いている、恐れも不幸も知らない若者たち。けれど彼女は知らなかった。彼らに照らされるのが、一人ではなく二人であること、二人の、未来であること。我侭も甘い凶器も不必要に、抱き締める腕の中で、一つ大人になった正臣は、沙樹だけのものであること。
「お誕生日おめでとう、正臣」