月の偶像
忘れはしない。
幼い頃の記憶が、今でも焼きついて離れないくらいに。
大切だったと、あの時に気付いていたならば。
今も大切なものを失わずに済んでいただろうかと、そんなことさえ無駄だとわかってはいても。
普通の子供だった俺達が選ばれたのは、偶然だったのだろうか。
恐らく、この世界の偶然とは決められた必然であって、何度も繰り返すそれは少しずつ歪みを孕んで。
多分今も歪んだまま、決して一本の直線にはならずに。
蘇る声音。
『月が、落ちてくるよ…』
泣きそうに震えながら、小さな身体に不釣合いな枕を抱えて。
月がその輪郭を見せる夜に決まって訪れた弟の。
唯一のサインを見過ごしていた俺は、多分駄目な兄貴だったろう。
「こわいよ、にいさん…」
力なく四肢を投げ出すたった一人の弟を見下ろして。
一筋流れた涙の跡に気付かない振りをする今だって、きっと兄貴失格で。
小さく零れた言葉に、返せるものなんて、本当はなかったのだけれど。
「月なんか、落ちてくる訳ねえだろうが…馬鹿が」
振り返って見たそれは、なるほど確かに満月に似て。
辛うじて意識を保つその心臓目掛けて、一思いに剣を突き立てることが出来たなら。
この下らない茶番を、終わらせることが出来るのかも知れないのに。
僅かに伸ばされる手を取って、何も知らなかった子供の頃のように、笑いかけてやれたのなら。
或いは、この歪な関係を断ち切ることが、できはしなくとも、許容してやれたなら。
それでも、確証もなしには足を止め振り返ることすら出来ない今の俺では。
「何が、死神だ」
俺はどちらにもなれはしない。
名の表すまま死神にも。
ぼろぼろになった弟の兄貴にだって。
いつだって、なれはしなかった。
『ばぁか。月なんか落ちてきたって、兄ちゃんがぶっ飛ばしてやる』
『おまえらはおれが守ってやるから』
『兄ちゃんに任せろ』
結局なにも守ることが出来なかった愚かな過去の偶像が、浮かんで、弾けた。