兄さん。
この旅の一座に連れてこられてから、俺は雑用全般と女形の御稽古と、演目の鑑賞ばかりやっている。
俺はザンザス兄さんみたいに綺麗で儚くて上手い女形になるために御稽古もちゃんとやってるし、毎日兄さんの演目を見て勉強している。いつかあんな風になれることを夢に見ながら毎日毎日。座長さんも他の役者さんたちもみんな良い人ばかりで辛いことなんて無い。
兄さんは頻繁に夜になるといなくなった。夕飯の支度が終って呼びに行くといない。他の人に聞いてみたこともあるけどみんな揃ってはぐらかしてばかりだ。朝になって帰ってくると決まって体調が悪そうにしている。体がだるいのか動きが緩慢で食欲もあまりない気がする。舞台に立てばいつもどおりすごく綺麗で勘違いかなと思っていたこともあるけれど、そんなことは無かった。
この場所に小屋を構えてから兄さんは毎日出掛けて行っている。俺は気になって、そっと兄さんの後をつけて行った。
兄さんの足が止まったのは一軒の宿屋の前で、そのまま中へ入っていってしまった。
俺は入ることは出来ないのでその宿屋を見上げた。するとそこの従業員の男が出てきた。追い払われるかと思ったのだがその男は俺を舐めるような視線で見た。気持ちが悪かった。
「おまえ、もしかして今来ている一座の子どもかい?」
「…はい。」
「そうか、おまえも可愛い顔をしているねぇ。早く客を取ればいいのに」
俺はその男の言っている意味が分からなかった。
でもその男の視線は本当に不快で、今すぐにでも駆け出したい衝動にかられた。「ザンザスを迎えにでも来たのかい?」
男はニヤニヤと下卑た笑いを貼り付けて俺に問うた。なにがそんなにおかしいというんだろうか。
「ザンザスは確かにここにいるけれど、朝までは帰らないよ。それとも、おまえも一緒に可愛がってもらうかい?」
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
俺は勢いよく地面を蹴った。後ろであの男の笑い声が聞こえたが振り向かない。一直線に小屋へ戻る。途中曲がり角で思い切りぶつかって跳ね飛ばされたが、ろくに言葉も残さずまた駆けた。
小屋に戻ると息はぜぇはぁと上がっていて心臓も痛かった。直ぐさま布団に潜り込んで目をつぶると先程の男の顔と声が甦ってくる。何とも気味の悪い男だった。出来ることならもう二度と会いたくないと思うほどに。軽い吐き気に見回れて目を開けた瞬間思い出した。
『明日の朝までは帰らない』
確かにあの男はそう言った。それはあの男が兄さんの居所と理由を知っているという意味なのではないのか。ぐるぐる無い頭で考えている内に外は明るくなってきてしまっていた。
静かな中にじゃりっじゃりっと足音が聞こえる。耳をそばだてているとその音はすぐ近くで聞こえた。足音が止むと次いでばしゃんと水が跳ねる音。俺は気になってそっと扉を開いた。
そこにはやはり兄さんがいた。上半身の着物を開けさせ頭から水を被っている。薄暗いからよくは見えないが、かなり冷たいであろう水を何度も何度も被っている兄さんの顔には何の表情も無い。ただ呆然と地面に視線を落としている。
その姿をじっと見つめていると急に兄さんが顔を上げた。まずいと思った時にはもう遅く、兄さんの目は俺を捕らえていた。兄さんは弾かれるように濡れた着物を直しその場を離れていってしまった。帰ってきた兄さんの姿を見るのはこれが初めてだった。
兄さんは今日も出掛けていく。今日もあの宿屋に行くんだろうか。あの宿屋には思い出すだけで吐き気を覚えるほど気味の悪い男がいる。あいつには会いたくないけれど、兄さんのことを何か知っているかもしれない。俺は今日も兄さんを追い掛けた。