放課後、図書室にて
図書室に寄って行くので、待っててもらえますか、そんな風に言ったら、シュミットは小さく眉根を寄せてわずかに考え込んだ素振りを見せた。
あまり図書室の蔵書には興味が湧かないらしいシュミットは、そう言えば大抵は教室で待っていると言って、エーリッヒが戻るのを待っていることが多かったのだが、
「……一緒に、行く」
「え? でも、」
「……いいから。行くぞ」
手首を掴まれて、用事があるのは自分だというのにずんずんと先を行くシュミットの背中を見つめながら、思う。
(………ありがとうございます、シュミット)
以前、自分が様子をおかしくしたのは図書室から戻った時だった。
何があったのか、自分ではっきりと話したわけではないが、薄々何かに勘付いているのであろうシュミットは、おそらく自分を気遣っているのだ。
過保護にされるのは好きではないが、シュミットに大切にされていると感じることができるのは、嬉しい。
何より、二人で共にいる時間自体が、エーリッヒにとって嫌なものであろうはずがないのだ。
「最近、何を熱心に読んでいるんだ?」
「これですか?」
手に持った本を示すと、あまりこういった分野の本には興味を惹かれないはずのシュミットが覗き込んでくる。
「ごくごくありふれた冒険ものですよ。シュミットも読みますか?」
「そうだな、……いや、いい」
「そうですか?」
「読んでお前が感想を教えてくれ。それだけでいい」
子守唄代わりにでも読みましょうか、冗談交じりに言うと、やや本気の目つきでシュミットが答えた。
「それもいいな」
「え」
「そうしたら毎晩お前、俺の枕元で俺が寝るまで付き合うんだぞ?」
それは遠慮しておきますと肩を竦めると、
「そうか?」
冗談でもなさそうな顔つきで残念だなとシュミットが呟いて、エーリッヒは苦笑するしかない。
数日前に来た時には横に立っていたのはシュミットではない別の人物で、その記憶は自然にその後の出来事へと思考を辿らせる。
"お前さ、いいように…"
"お前のこと、ずっと、"
ずきりと胸が痛んで、シュミットを貶されたこともそうだし、シュミットと自分の信頼関係を否定されたことに対してもだ。
……これから、この場所にくるたび、自分はこんなことを思うのだろうか。
あのとき、突然の行為に対する驚きから、一瞬だけとはいえ包みこもうとする腕を拒めなかった自分。
すぐに撥ねのけたとはいえ、囁かれた告白は、今も耳に残っている。
残したいものでも、ないはずなのに。
「どれだ?」
そこへ、シュミットの声が聞こえて、はっとする。
目的の本棚まで辿り着いて、シュミットが目の前の本棚をぐるりと見回して、エーリッヒの探す本を見つけようとしているようだ。
「…あの、背表紙の青い本です、けど。大丈夫です、自分で」
とれます、言おうとして、すいと伸びた手が本の背表紙を摘んだ。
ほら、と差し出された本が手の中に落ちて、礼を言おうと振り返ろうとしたのだが、シュミットの手は引っ込まずにそのまま本棚に凭れかかった。
え、と目をその腕に向けている間に、逆側の手も伸びて、同じように本棚に置かれた。
結果、エーリッヒは両の腕に左右を挟まれて、それから本棚とシュミットの体の間に挟まれた形になる。
窮屈な空間で身をよじることもできず、困ったようにエーリッヒは呟いた。
「シュミット、」
動けないんですが、本棚に向かって開いた口は、しかしエーリッヒ自身の手のひらによって塞がれることになる。
ふ、と耳朶に生温かい息がかかって、予期せぬ感触にびくりと震えてしまった。
思わず漏れてしまった声に、真っ赤になって口元を覆う。
思い切り抗議しようと体を捩じろうとしたところを、シュミットの腕がぐいと曲がってさらに本棚へと迫る。
完全に押しつけられた体勢になり、エーリッヒはひどく慌てた。
二人だけの空間でこういう悪戯めいたことをされるのは時折あったことだが、こんな公衆の場所で、だなんて、
「シュミット、誰かに見られたら…!」
「もう放課後だ、誰も来ない」
そうは言っても、カウンターには係の人間がいる。
まばらだとはいっても、他の閲覧客がいつこちらに足を向けるとも限らないではないか。
「でも…!無人というわけでは、」
ないんですよ、と、続けようとしたところに、
「うるさい」
少し黙っていろと言いながら、髪に埋められた唇が銀糸をかき分けて耳朶を食んだ。
「ちょ、シュミ…!」
「声を出すと、人が来るかもしれないな」
「……っ、」
「本も。しっかり持っていないと落とすぞ」
音を立てたら誰かが様子を見にくるかもしれないな。
耳朶を食みながらそんなことを言うものだから、息がかかるたびにぞくぞくとしたものが背筋を這い上がる。
首を縮めて本をぎゅうと抱き込んで、その感覚に耐えていると、やがてやっとのことで唇が離れて行った。
しかし今度はぐいと頬を掴まれて、首だけ捩じられる。
その先、ごく至近距離にあったシュミットの顔が薄く眼を閉じて近づいてくる。
逆らい難い至近距離、エーリッヒにできるのは目を閉じることだけだ。
触れるだけかと思ったのだが、合わせ目から深く入り込んでくる感触に、いっそう強く眼を瞑る。
強張らせはしても、拒みはしないエーリッヒに気を良くしたのか、シュミットは更に体を抱き込んで密着させてくる。
本を抱えたままの腕を、さすがに突き出してシュミットの胸を押しやった。
「へ、部屋に戻ってからでもいいでしょう? 何もこんなところで、」
「今がいい」
きっぱりと、それはもう逆らいようのないくらいにきっぱりと言い切られて、エーリッヒは絶句した。
さらりと、シュミットの手がエーリッヒの髪を撫でる。
「お前の髪が、触り心地がいいのがいけない」
「そんな、」
つるりとシュミットの指が滑る。
後ろ髪を遊んで、首筋を伝う。
「お前のうなじが、誘っているのがいけない」
「シュミット」
そんなことを言われても、と思うが、反論する間もなく、シュミットが頬に触れてくる。
両頬をそっと、けれど逃げられない視線の強さで挟まれて、竦めた首を引き戻すように上向かされる。
お前が、とシュミットが囁くように言う。
「お前が、触ってほしそうにしているのがいけない」
触れてほしいんだろう?
つまりそれは、シュミットの触れたいという欲求の裏返しで。
けれどそんな言い方でしかそれを表さないシュミットの、不器用さと傲岸さにエーリッヒは呆れてしまう。
「……シュミットは、意地悪です」
「なんとでも」
再び近づいてくる顔に、今度はゆっくりと目を閉じる。
触れ合う直前、
「………かないません、貴方だけには」
呟きに、シュミットもまた微笑んだ気配がした。
そうして、エーリッヒの記憶は塗り替えられた。
この場所にまつわる記憶は、後悔に彩られたものではなく、温かい腕と、熱い手と、唇と、
(シュミット、)
大切な人にまつわるものへと、幸せなものへと、塗り替えられたのだ。
2010.6.19