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春のありかを知っている

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目を覚ますと、春の匂いがした。ベッドから起き上がり、背伸びをする。夢を観ていたことを理解してすぐに、では、今が現実なのだろうか?ということに気づいた。頬杖をついて考えてみても答えが出るはずもなかった。自分の隣りで眠りについたはずの彼はもういなかった。それに代わるようにして、下の階から朝食の匂いがした。階段から上がって来るのであろう彼の足音に耳を澄ませて、じわり、と涙が滲んだ。冷たい風が、窓の向こうで窓ガラスを揺らしている。外界と切り離された様に、この部屋は暖かかった。まるで、世界ひとりきりのようにさえ思えた。ドアが小さく唸り、開く。

「やっと起きた」
「随分と深く眠っていたみたいですね」
「今朝早くね、君の夢を観たよ」

ドアから顏を出した彼は酷く機嫌が良いようで、わたしが起きたことに気づくと目を細めてベッドの横に腰をかけた。ベッドが軋む微かな音がした。窓から差し込むひかりが目に痛くてわたしは眉を顰めると何が面白いのか、彼は相変わらず目を細めてわたしを見ている。差し出されたコーヒーを片手に彼をみると、彼は至極幸せそうであった。かすかにだけれど、わたしは彼からはいつも冬の香りが立ちこめていることを知っていた。わたしだけが知っていた。貴方は寒い夜の薫りがすることを、世界でわたしだけが、知っているのだ。自惚れではない、ただ、知っている、ただ、それだけのことだ。

「奇遇ですね、わたしも今日、貴方の夢を見ましたよ」

どんな夢?そう、目の前の大男が嬉しそうに笑うものだから、わたしはじわりと自分の中から溶け出す黒い生き物を思い、ため息をついた。大した内容ではありませんよ、と吐き出して。隠すことではなかったのだけれど、正しく言葉にすることができる自信が微塵もなかったのだから。ドロドロと溶け出す物をコーヒーと一緒に飲み干してしまえたら、どんなにいいことだろうか。幸福も不幸もすべて、飲み干してしまいたい。目の前の愛した男の分さえもすべて。

そうして彼の大きな手でわたしの頬に触れる。わたしは彼の手のひらの皮膚は厚く、体温は酷く低く、まるで死体のようだということを、知っていた。昨夜、嫌というほど知らされた。昨日の夜、突然半ば誘拐の状態でこの家で連れて来られ、彼に身を委ねた時から。わたしたちは孤独だ。ふたりぼっちになることを恐れて、孤独を受け入れて、手を繋いで夜道を歩くような、曖昧な関係のわたしたち。ふたりぼっちは淋しい、孤独はもっと恐ろしい。だけれど一人でひとりぼっちを受け入れることは耐えきれないほどに苦痛であるから、だからわたしたちは決めたのだ。このただっぴろい家に逃げ込むことを。愛していると口にして、コーヒーの苦みでキスを交わして。誘拐犯と被害者の奇妙な関係で外の冬の気配に耳をそばだてて。

どうしてこんな風になってしまったのだろうか、それをわたしが望んでいたのだろうか、はたして彼は?と考えてもちっとも答えが出ないものだから、わたしは段々考えるのが嫌になる。思考停止にしてしまえば、すべてが上手く流れてゆく。わたしたちは孤独だ。世界で切り離されたこの家で、思い込んだ愛の言葉を吐く。共有出来る<それ>に縋って。その正体がいつか誰かにバレてしまわないように、すっかりと両手で隠しながら。

「僕のはね、君が僕のものになる夢だった」

そう笑って今日初めてのキスをした。触れるだけの酷く簡単な行為に彼とわたしは縋ってる。これだけがすべて、なんということもなく、わたしと彼が受け入れた、朝のこと。




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20100508 春のありかを知っている
作品名:春のありかを知っている 作家名:エン