無効試合
揺れる電車の音がいやに激しい。
それもこれも、隣席の彼が一言たりと話さないせいである。
「おっまえさあ…」
「………」
「いい加減観念したら?」
「誰がするか。」
こちらではなく窓へ向けて放たれた言葉に、フランスは軽い溜め息をついた。電車が出発して一時間。彼はずっとこの様子で、要するに不機嫌なのだ。
確かに、新入生が入って来て忙しいこの時期に生徒会の旅行を企画した(だって高3の自分達にとってはこの連休を逃したらもうチャンスがないのだ)フランスにも否はある。しかし、こと今回に関していえば原因は別の所にあると言うべきだろう。
(素直って言葉を知らねぇんだよな)
実は本来、フランスが座る席には別の人物が座る予定になっていた。その人物と隣の彼――まあアメリカとイギリスのことだが――が互いに片思い(つまり両思いということだ)なのを配慮してのことだったのだが、フランスは最も重要なことを失念した(ああ、今思い出してもどうしてあんな失態を犯したのか分からない)。
2人は極度に素直じゃないのだ。特に互いに関しては。
結局2人はどちらからともなく相手の隣は嫌だと騒ぎ出し、更に嫌だとはどういう意味だと口論を始め、その争いが収まらないままこの旅行になだれ込んだ。全くどんなバカップルだと罵ってやりたい気持ちは山々なのだが、如何せんこればかりは外野が口を出しても解決のしようがない。
どうしたものかと思いつつ、結局生徒会メンバーはさてどちらが先に謝るかと賭けをしている始末であった。
ちなみにフランスはイギリスに一票。
(坊ちゃんは甘いからなー…)
彼ら2人のことは出会った当初から知っているフランスである。いつもなんだかんだ言ってアメリカを甘やかすイギリスを思い出しによによと笑ったら、隣から殺気が飛んできた。あー怖い怖い。
それでも笑いの止まらないフランスを一瞥すると、イギリスは舌打ちをして席を立った。
「あれ。どこ行くつもりだ?」
「売店。」
「あ、そう。さっさと戻れよ。あと気が向いたらお兄さんにもなんか飲み物買ってきて。」
「だっれが!」
こんな所は普段と大して変わりない。
イギリスが肩を怒らせて後方の売店へ歩いていくのを見送った後、フランスは今度は前方に視線をやって、問題の片割れの様子を伺い見た。
するとこちらもこちらで不機嫌そうに窓の外を見送っている。そしてそれを隣の日本が今にも笑い出しそうな顔で眺めていた。ああこれは次の新刊のネタにされるな。合掌。
しかしそんな時間も長くは続かず、アメリカはおもむろに席を立つとイギリスとは逆方向へ歩き出した。直前日本と交わした話は聞こえなかったが、恐らく前方の売店へいったのだろうことが容易に想像出来る。
(こりゃー…賭けは無効試合だな。)
2人の様子にオチを悟ったフランスは深く溜め息をつくと、ICプレーヤーのスイッチをオンにした。
正直、あの2人の会話はもう聞き飽きている。
熱いコーヒーのなみなみ注がれた紙コップを持って、イギリスは半ば無意識に歩みを進めていた。
(ありえねぇ…)
何がって、それは勿論コーヒーを買った自分自身がである。
売店など気分転換に行っただけなのだが、何か買わないと申し訳ないだろうと口をついてしまった注文がコーヒーだった。自らの言葉に呆然としている内に取り消すチャンスを失い、結局そのコーヒーを持ったまま現在席へ向かっている。
(…やっぱり、そうするしかねぇかなあ。)
脳内に浮かんだある考えに、思わず憂いの息が漏れる。しかし、ある意味渡りに船といえる考えでもあった。
仕方ない。
心を決めたのを見計らったように、前方に自分達の席と彼の姿を認める。心臓がばくんと跳ね上がったが、気にしない風を装ってそのままずんずん歩いていく。
そして彼と向かい合わせに立つと、どうにかこうにか口を開いた(ちなみに、何故彼が立って目の前にいるのかという問題に回す頭は残っていなかった)。
「ア、アメリカ!」
「ああイギリス、いいところに…あれ?」
アメリカの視線がすいとイギリスのカップに注がれる。
「君、紅茶じゃなかったっけ。」
「え、えーっと、だな。」
「うん。」
「間違って買っちまって。」
「うん。」
「べ、別に俺はコーヒーなんて飲んだりしねぇからっ」
「うん。それで?」
「仕方ねぇから、お前にやる!勘違いするなよ、お前のために買ったんじゃないからな、ただ間違って買っちまったのを要らないからやるだけだからな!仕方なくなんだからな!」
イギリスの決死の台詞に、しかしアメリカの反応は飄々としたものだった。
「ああ、それは好都合だな。」
「え?」
「いや、俺も間違いで紅茶買っちゃったから。君にあげようと思って。」
唖然呆然、という言葉は今この時のためにあるのかも知れなかった。
すっかりフリーズしてしまったイギリスの手からコーヒーのカップを取り上げると、アメリカは自分のカップをイギリスに差し出す。
「さっさとしてくれない?」
「えっ?あ、ああ、うん…。」
未だショックから立ち直れていないイギリスがぼんやりながらカップを受け取ったのを見届けると、アメリカは直ぐに席へ戻ろうと歩き出した。それをイギリスが呼び止める。
「あ、おいアメリカ!」
「?なんだい?」
「わ、悪かったな、その、お前の隣が嫌だとか、言っ…て…。」
僅かに顔を赤く染め、目を反らしながら言うイギリスに(どこの乙女だよと外野は全員心中で突っ込んだ)、アメリカが振り返った。
「ああ、そのことなら別に気にしてないから。」
そしてそれだけ言うと席に戻り、何事もなかったかのようにコーヒーを一口、二口。
イギリスはしばらくその場に突っ立っていたが、やがて弾かれたように歩き出すと元居た位置に収まった。
フランスはICプレーヤーのスイッチを切ると、先と同じ問いを口にする。
「いい加減観念したら?」
「誰がするか。」
ただしその答えには、若干の安心が込められていたけれども。
その様子を見て、日本は隣の少年に声をかけた。
「良かったですね。」
「え、何がだい?」
「いいえ、こちらの話です。」
明らかに気にしていたし、明らかに今先の殺気が消え失せているというのに、全く。
(素直じゃありませんね)
ああ、これだからツンデレは飽きない。
日本は心のメモ帳に改めてそう付け足すと、夏の新刊の話を考え始めた。