屋上からカーテンコール
「踏み外した道は二度とは戻れないよねぇ。」
臨也は笑いながらそんなことを言った。彼のバックには真っ暗な空。目線を下げれば輝くネオン。時刻は夜。今日、臨也が静雄の追跡から逃れながらやってきたのは、東急ハンズの屋上だった。いつか、ここから首無しライダーがビルの壁面を走り出したことがあった。そう、何年も前の話ではない。
「分かってたのにね。」
臨也の笑顔が苦笑に変化する。いつも人を食ったような笑みを浮かべる臨也にしては珍しい表情だった。対する静雄の眉がぴくんと跳ね上がる。言葉にするなら、怪訝。仇敵のらしくない様子に違和感と嫌な予感を覚えた、そんな表情。
「何を、しやがった。」
「何って?」
「惚けてんな。手前がいつもと違うってだけで不吉なんだよ、なあ臨也?」
「別に、何も?」
「あぁ?」
「だから、何もしてないってば。俺はさ、終わらせに来たんだよ。」
「…終わらせに?」
静雄は臨也から視線を外さない。その鋭い眼光を受けても尚飄々とした様子で、臨也は続きを口にする。
「いやあ、シズちゃんはすっかり人間として成長したよねえ。粟楠茜の件にしろ、ヴァローナの件にしろ、さ。君は俺の前で今更成長した。今だって君は多分、君の仇敵以上に池袋の厄災である俺を忌まわしく思ってる。誰かの為に怒るなんてさ…まるで正義の味方みたい。」
臨也の言葉を静雄は鼻で笑う。この反応ですら――臨也の挑発に手を挙げない時点でそれは静雄の変化であることを、本人だけが気付いていない。静雄は言った。
「俺が正義の味方なわけねぇだろ。暴力しか使えないこの俺が。手前が一番分かってんだろうが。」
「どうかな?君の暴力は徐々に力になりつつある。秩序のなかった混沌に秩序が与えられつつある。――ああ、今ならこの言葉が言えるかな。」
「この言葉?」
「愛してるよ、シズちゃん。」
時が止まった。そう錯覚するほどに、その臨也の言葉は静雄にとって予想外だった。いや、予想外だなんて甘いものではない。一生、言われる筈のなかった言葉。
臨也は繰り返す。
「愛してるよ、シズちゃん。大嫌いだった君のことを、俺は愛してあげる。素晴らしい!これで俺は漸く人類全てを愛することが出来るじゃないか!」
そこでやっと、静雄は理解した。目の前の仇敵がどうにも完膚なきまでにおかしいらしいことに。
「どうしたの?」
黙ってしまった静雄の顔を臨也が覗き込む。静雄の目と臨也の目が合った。臨也の柘榴石のような真っ赤な目を見て、静雄は戦慄した。
――臨也の目に、静雄の姿は欠片も映っていなかった。
いや、正確に言えば、映ってはいる。しかし、それまでのように平和島静雄という個人を映しているのではなかった。臨也がその目に映していたのは、彼の愛して止まない人間の姿だった。
「もっと喜びなよ。君は自らの力を忌んでいた。化け物と言われることを嫌がってたよね。ねえ、喜びなよってば。俺は君を人間として認めると言っているのに。」
臨也の言葉は、間違っていない。静雄は平穏な日常が欲しかった。だから、その平穏をなきものにするこの力が嫌いだった。誰かを傷つけることしか出来ない自分の力が恐ろしかった。人間らしからぬ力は忌みこそすれ認められるものではなくて。そんな自分を化け物と呼びなわす臨也はもっと嫌いだった。
だから。臨也のこの態度は確かに、有り得ないと思いながらも、心のどこかで望んでいたことの筈だった。
なのに。分からない。何故自分は、えもいわれぬ喪失感に囚われているのか。
「…手前、は。」
何か言わなければと。自分でも分からない焦燥感に駆られて、静雄は何とか唇を動かす。言葉を紡ぐ。
「なあに、シズちゃん?」
「手前だって、普通の人間のくせに偉そうなこと言いやがって。」
「何を今更。」
臨也がくすりと笑った。それは嫌みでも嘲りでもなく、純粋に静雄の台詞に毒気を抜かれた者の笑いだった。静雄の見たことのない笑顔。静雄の知らない折原臨也が、そこに居た。
「――誰だ、手前。」
「ヤだなぁ。俺の名前忘れちゃった?臨也だよ、折原臨也。素敵な情報屋で普通の人間の、折原臨也。」
「…突然、変わり過ぎなんだよ畜生。ノミ蟲のクセに。」
「先に変わったのはシズちゃんだ。」
「?何言ってやがる、俺は何も」
「君が変わって、俺は思い出した。それだけだよ。」
静雄の言葉を遮り、強い調子で臨也は言う。
「俺は普通の人間だよ。君と違ってね。でも普通の人間に必要な日常ってヤツを当に捨てて来ちゃってさ、自分の意志で道を踏み外した普通の人間なんだよ。なのに俺はずっとそれを忘れてた。だから思い出した。それだけなんだよ、俺は。」
それだけ、それだけ、とやたら強調するように臨也は繰り返す。
「俺は君という化け物を見ることで日常の人間だと思い込んでいた。愚かなことにね。けれど君は人間になった。だから、俺は思い出せた。そういう意味では、君と――あの時の彼女に俺は感謝すらしてるよ。」
あの時の彼女が誰かを静雄は知らなかったが、感謝という言葉が酷く裏返った感情の発露だということは悟った。
臨也は尚も続ける。
「人、ラブ!俺は人間が好きなんだ!大好きなんだよ!愛してる!!全く素晴らしい生き物なんだよ人間は!俺と違って!!」
最後の台詞に静雄は目を見開く。頭を鈍器で殴られたような感覚。目を凝らす。目の前の臨也を凝視する。ああ。
折原臨也という男は、こんなに儚い人間だっただろうか。
臨也がぐるりと回った。ネオンと向かい合って、手を広げる。そして叫ぶ。まるで幼子が助けを求めるように、泣き叫ぶように、朗々と。
「だから!喜べよ、愛する人間達!俺はッ折原臨也はッ!人間にもなれない君達の厄災折原臨也はッ!今日ここで死に絶える!これでッ!池袋の悪夢は終わりだよ!全て終わり!カーテンコールだ!」
臨也は走り出そうとした。走り出し、飛び越え、全てを終わらせようとした。
しかし、出来なかった。自分より数段強い力に腕を掴まれて、走ることは愚か歩くことすら出来やしない。
「…離してよ。」
「断る。」
「離せ。」
「断ると言ってる。」
「離せよ笑えないッ!正義の味方が悪役を助けるなんてそんなシナリオ、百年前にもう使い古されてるんだよ!」
「――悪ィがな。」
臨也がどんなに喚いても、静雄はその手を離そうとはしなかった。
今まで気付かなかったことが不思議なくらいに簡単なことだった。目の前のこの仇敵は、静雄と全くそっくり、鏡に写したように同じだったのだ。人間に憧れて、愛されたくて仕方がなくて、でも自分をコントロール出来ない。そんな、どうしようもない――ただの、化け物。
自分は結構恵まれていたのだと思う。ならば次はきっと、恵む方になるべきなのだ。きっとそうだ。
だから静雄は手を離さなかった。離さないで、言った。
「手前の言うことを聞く俺だったら、手前を嫌いになんざなってねぇ。」
ふわりと。そんな効果音が恐らく相応しい。
静雄は背後から臨也の小さな体躯を抱きすくめた。こんなに小さかっただろうかと少し驚く。いつも傷付けてばかりだった身体が、腕の中で僅かに震えていた。
「馬鹿じゃないの?」
「ああ、馬鹿だよ。悪かったな。」
「…ほんと、最悪だよ。」
臨也は笑いながらそんなことを言った。彼のバックには真っ暗な空。目線を下げれば輝くネオン。時刻は夜。今日、臨也が静雄の追跡から逃れながらやってきたのは、東急ハンズの屋上だった。いつか、ここから首無しライダーがビルの壁面を走り出したことがあった。そう、何年も前の話ではない。
「分かってたのにね。」
臨也の笑顔が苦笑に変化する。いつも人を食ったような笑みを浮かべる臨也にしては珍しい表情だった。対する静雄の眉がぴくんと跳ね上がる。言葉にするなら、怪訝。仇敵のらしくない様子に違和感と嫌な予感を覚えた、そんな表情。
「何を、しやがった。」
「何って?」
「惚けてんな。手前がいつもと違うってだけで不吉なんだよ、なあ臨也?」
「別に、何も?」
「あぁ?」
「だから、何もしてないってば。俺はさ、終わらせに来たんだよ。」
「…終わらせに?」
静雄は臨也から視線を外さない。その鋭い眼光を受けても尚飄々とした様子で、臨也は続きを口にする。
「いやあ、シズちゃんはすっかり人間として成長したよねえ。粟楠茜の件にしろ、ヴァローナの件にしろ、さ。君は俺の前で今更成長した。今だって君は多分、君の仇敵以上に池袋の厄災である俺を忌まわしく思ってる。誰かの為に怒るなんてさ…まるで正義の味方みたい。」
臨也の言葉を静雄は鼻で笑う。この反応ですら――臨也の挑発に手を挙げない時点でそれは静雄の変化であることを、本人だけが気付いていない。静雄は言った。
「俺が正義の味方なわけねぇだろ。暴力しか使えないこの俺が。手前が一番分かってんだろうが。」
「どうかな?君の暴力は徐々に力になりつつある。秩序のなかった混沌に秩序が与えられつつある。――ああ、今ならこの言葉が言えるかな。」
「この言葉?」
「愛してるよ、シズちゃん。」
時が止まった。そう錯覚するほどに、その臨也の言葉は静雄にとって予想外だった。いや、予想外だなんて甘いものではない。一生、言われる筈のなかった言葉。
臨也は繰り返す。
「愛してるよ、シズちゃん。大嫌いだった君のことを、俺は愛してあげる。素晴らしい!これで俺は漸く人類全てを愛することが出来るじゃないか!」
そこでやっと、静雄は理解した。目の前の仇敵がどうにも完膚なきまでにおかしいらしいことに。
「どうしたの?」
黙ってしまった静雄の顔を臨也が覗き込む。静雄の目と臨也の目が合った。臨也の柘榴石のような真っ赤な目を見て、静雄は戦慄した。
――臨也の目に、静雄の姿は欠片も映っていなかった。
いや、正確に言えば、映ってはいる。しかし、それまでのように平和島静雄という個人を映しているのではなかった。臨也がその目に映していたのは、彼の愛して止まない人間の姿だった。
「もっと喜びなよ。君は自らの力を忌んでいた。化け物と言われることを嫌がってたよね。ねえ、喜びなよってば。俺は君を人間として認めると言っているのに。」
臨也の言葉は、間違っていない。静雄は平穏な日常が欲しかった。だから、その平穏をなきものにするこの力が嫌いだった。誰かを傷つけることしか出来ない自分の力が恐ろしかった。人間らしからぬ力は忌みこそすれ認められるものではなくて。そんな自分を化け物と呼びなわす臨也はもっと嫌いだった。
だから。臨也のこの態度は確かに、有り得ないと思いながらも、心のどこかで望んでいたことの筈だった。
なのに。分からない。何故自分は、えもいわれぬ喪失感に囚われているのか。
「…手前、は。」
何か言わなければと。自分でも分からない焦燥感に駆られて、静雄は何とか唇を動かす。言葉を紡ぐ。
「なあに、シズちゃん?」
「手前だって、普通の人間のくせに偉そうなこと言いやがって。」
「何を今更。」
臨也がくすりと笑った。それは嫌みでも嘲りでもなく、純粋に静雄の台詞に毒気を抜かれた者の笑いだった。静雄の見たことのない笑顔。静雄の知らない折原臨也が、そこに居た。
「――誰だ、手前。」
「ヤだなぁ。俺の名前忘れちゃった?臨也だよ、折原臨也。素敵な情報屋で普通の人間の、折原臨也。」
「…突然、変わり過ぎなんだよ畜生。ノミ蟲のクセに。」
「先に変わったのはシズちゃんだ。」
「?何言ってやがる、俺は何も」
「君が変わって、俺は思い出した。それだけだよ。」
静雄の言葉を遮り、強い調子で臨也は言う。
「俺は普通の人間だよ。君と違ってね。でも普通の人間に必要な日常ってヤツを当に捨てて来ちゃってさ、自分の意志で道を踏み外した普通の人間なんだよ。なのに俺はずっとそれを忘れてた。だから思い出した。それだけなんだよ、俺は。」
それだけ、それだけ、とやたら強調するように臨也は繰り返す。
「俺は君という化け物を見ることで日常の人間だと思い込んでいた。愚かなことにね。けれど君は人間になった。だから、俺は思い出せた。そういう意味では、君と――あの時の彼女に俺は感謝すらしてるよ。」
あの時の彼女が誰かを静雄は知らなかったが、感謝という言葉が酷く裏返った感情の発露だということは悟った。
臨也は尚も続ける。
「人、ラブ!俺は人間が好きなんだ!大好きなんだよ!愛してる!!全く素晴らしい生き物なんだよ人間は!俺と違って!!」
最後の台詞に静雄は目を見開く。頭を鈍器で殴られたような感覚。目を凝らす。目の前の臨也を凝視する。ああ。
折原臨也という男は、こんなに儚い人間だっただろうか。
臨也がぐるりと回った。ネオンと向かい合って、手を広げる。そして叫ぶ。まるで幼子が助けを求めるように、泣き叫ぶように、朗々と。
「だから!喜べよ、愛する人間達!俺はッ折原臨也はッ!人間にもなれない君達の厄災折原臨也はッ!今日ここで死に絶える!これでッ!池袋の悪夢は終わりだよ!全て終わり!カーテンコールだ!」
臨也は走り出そうとした。走り出し、飛び越え、全てを終わらせようとした。
しかし、出来なかった。自分より数段強い力に腕を掴まれて、走ることは愚か歩くことすら出来やしない。
「…離してよ。」
「断る。」
「離せ。」
「断ると言ってる。」
「離せよ笑えないッ!正義の味方が悪役を助けるなんてそんなシナリオ、百年前にもう使い古されてるんだよ!」
「――悪ィがな。」
臨也がどんなに喚いても、静雄はその手を離そうとはしなかった。
今まで気付かなかったことが不思議なくらいに簡単なことだった。目の前のこの仇敵は、静雄と全くそっくり、鏡に写したように同じだったのだ。人間に憧れて、愛されたくて仕方がなくて、でも自分をコントロール出来ない。そんな、どうしようもない――ただの、化け物。
自分は結構恵まれていたのだと思う。ならば次はきっと、恵む方になるべきなのだ。きっとそうだ。
だから静雄は手を離さなかった。離さないで、言った。
「手前の言うことを聞く俺だったら、手前を嫌いになんざなってねぇ。」
ふわりと。そんな効果音が恐らく相応しい。
静雄は背後から臨也の小さな体躯を抱きすくめた。こんなに小さかっただろうかと少し驚く。いつも傷付けてばかりだった身体が、腕の中で僅かに震えていた。
「馬鹿じゃないの?」
「ああ、馬鹿だよ。悪かったな。」
「…ほんと、最悪だよ。」
作品名:屋上からカーテンコール 作家名:皇 琴美