なみだのはなし
買い物から帰ってきたらそのまま台所に直行したほうが無駄が少ないはずだ。が、俺を置いて買い物に行ったときの新八は帰ってくるといつでもまず俺の姿を確認して「ただいま帰りました」と報告してから台所へ向かう。そういうのを律儀と呼ぶのだろうか。不思議に思ったが、もう慣れてしまった。言動を深く考えない。新八のその面倒な習慣に俺は口を出さない。顔を見れれば俺も安心するからそれでいい。
そして今日もひょっこりと顔を出して。
「ただいまかえり、?」
あり。途切れた。
「銀さん」
俺は返事をする代わりに新八のほうを向く。新八はスーパーの袋を投げ捨てるように床に置いて俺の座る椅子へ足早に近寄ってきた。俺が呟いた「おかえり」にも構うことなく新八は俺の肩を掴んで覗きこんだ。驚き、いや、焦りの表情?
「どしたのしんぱち」
「こっちの台詞ですよ! どうしたんですか?」
「へ」
「へ、じゃなくて……なんで泣いてんですか」
「ええっ?」
背もたれに任せ切ってた背中も思わず飛び起きた。俺泣いてんの? ていうか人って自覚なしに泣けるもの? 加齢に伴う涙腺の機能の衰退とかなんかそんな感じ? 要するに俺ってもうそんな歳? どんな歳!
おそるおそる指で目尻に触れると、確かに、水分。
「なんじゃこりゃあ」
「涙じゃないんですか」
「いやいやいやだって考えてもみてよ新八くん、一人でぼけーっとしてただけなのに知らないうちに泣いてたなんて悲し過ぎるよ人として……ん?」
引っ掛かって記憶を辿る。意味もなく頭を掻く。……。あ。
「わかった。さっき欠伸したからだ」
「あくび?」
「そ、あくび。」
あくび、ともう一度呟いて俺から手を離して、肩を落とした新八は言った。
「なあんだ」
俺はうっかり十秒間の間をあけてしまう。「なあんだ」て。なんだそりゃ。
そのまま台所へ向かう新八を引き止めずにはいられなかった。
「ちょっとちょっと。なあんだ、て何さ。なあんだ、て」
「……ええと」
新八は首を傾げて視線をさまよわせて考えているようだった。と思ったら意外とすぐに返答が返ってきた。
「残念だったから、かな」
そーかそーか残念だったからか。うん、それなら納得、できてたまるか。視線で訴えると新八は困ったように口を曲げて、うーんと唸る。
「だって銀さんは泣いてるとこなんて見せてくれないじゃないですか」
「…………」
「ていうか人から隠れて泣くことすらしなさそうだし」
「はあ?」
「あ、すいません。僕の勝手なイメージです」
「はあ」
じゃあコレ片付けてきます、と新八はスーパーの袋を拾い上げて改めて台所へ向かった。俺は今度は引き止めず、今聞いたばかりの言葉を反芻する。
泣くところは見せない、か。当たり前じゃないか。そもそもマジ泣きする機会自体が少ない。それを言わなくたって、俺のような立場があいつ(というかあいつら?)のような立場に涙なんて見せるものではないんじゃないのか、一般的に言って。(しかしここで保護者なんて言葉を使ったらあいつらは怒るだろうな、と思った。)そりゃあカッコイイところばかり見せてるわけではないしむしろ白い目で見られる回数のほうが多いかもしれないくらいだけど。格好をつけていたいラインってあるじゃん。新八くんその辺わかってくれてないのかな。意外と察しが悪い……。
もしかして、と俺は瞠目する。もしかしてあいつは違うのか? そーゆーふうに考えてないのか? その立場にいたくないのか?
それとも俺を引き摺り下ろしたいのか?
「銀ちゃーんお腹減ったヨ~」
思考を逸らしたのは神楽の声と、それから、バクリという効果音。とどめを刺すのは一拍遅れて襲ってきた、激痛。
「あーだだだだだだだだだァァァ!! てめオイこら離せ定春ッ!」
白くて大きなウチのわんちゃんは俺が椅子から滑り落ちてもどんなに一生懸命にもがいても俺の頭に噛み付いたまま離れません! 理不尽! なにこの理不尽な痛めつけ!
「定春もお腹空いてるアル」
冷静に分析してんじゃねェ! なんて言ってる余裕もない俺は、それでもとりあえず思い切り叫ぶ。
「新八ィィ!! エサ持って来いィィ! でないと銀さんがエサになるゥゥゥ!」
閑話休題、という言葉の使い方がわからない。どーでもいいや。とにかく日常の中のひとつの惨事はなんとか無事に通り過ぎて、俺の頭は定春の口から生還した。そんな俺に構うことなく、新八の用意したバナナで神楽は幸せそうだし、その隣の定春も同じものを食べているらしい。俺はと言えばとりあえず自分の血と奴の唾液を拭き取ることに忙しい。
「バナナ安かったんスよ」
新八が、奴らの食べているのと同じおやつを俺の元へも持ってきた。ちょっと黒くなってる。
「あ、そう…痛たた。痛ェなチクショ」
ぼやいているとソファの後ろから「大丈夫ですか?」と見下ろされた。ちょっと緊張して、なんとなく視線が泳いでしまう。だって新八くんったらちゃんと表情まで使って心配してくれてんだもん。
新八は俺の前髪をかきあげて傷を覗き込んだ。俺はぎゅうと眼をつむって意図的な大声をあげる。
「いたいいたいいたーい、泣く! もう俺泣く!」
新八の手が離れる。目を閉じたまま、どんな表情をしてるんだろうかと考えた。やっぱり心配してるのか、困ってるか、驚いてるか。本当は泣くほど痛くなんてないことは、見破られているだろうか。そう思ったら驚かしたい気がしてきて両の目に思い切り力を入れてみたけど、涙が出てくる気配は微塵も感じられなかった。あれ、泣くってどうやってやるんだったっけ。
ふわり、と瞼に何かが触れた。びっくりしたけど、なんてことはない。さっきまで触れていたのと同じ体温だ。
「しんぱち?」
指がそうっと睫毛をなぞっていった。呼吸を躊躇う。言葉もなくそんなことをされると不安だし状況を視覚で確認できないのも不安だ。なのに安心する。混乱する。全感覚が緩やかな指の動きだけを追った。何か言いたい。言葉が出ない。
「全然泣いてないじゃないですか」
笑う声を聞いて、手が離れたから目を開けた。相変わらず俺を見下ろす格好で新八が笑っている。穏やかな表情が視界を占める。何かが身体の奥に刺さってゆく感じがした。それは温かかったから俺は傷ついたりしなかったけど、痛みがないわけではなく、その僅かな痛みが鼻の奥にツンときて、今度こそ本気で泣きそうだと思った。正直焦った。
焦りのあまり立ち上がる途中で頭突きをかました。
「ぎゃ! な、なにすんですかっ! 鼻、痛ッ…」
「いや、その…風呂入ろうかなと思って…」
「唐突だなオイ。つーかまだ昼間!」
「定春の唾液がさァ、落ちねーんだよ」
立ち上がって伸びをして、バナナは放置で歩き出す。平静を装いながら内心はガタガタでグラグラだ。なんだかまだ動きがギクシャクしている気がする。幸福感で泣きそうになるなんて思わなかったから。
「ちょっと銀さん、僕なにか気に障ることしちゃいました? てゆーかどっちにしても謝れよ」
「ああ、うん、好きだよ新八」
それだけ言い残して俺は全速力で逃げだした。
俺、いつか絶対あいつに泣かされる。