耳元で警戒音
今にも破裂してしまうんじゃないかと思うぐらいにうるさい心拍音が耳元でする。
おかしいな、心臓って胸にあるもんだよな。慌てきった思考の片隅で、そんな冷静なのかなんなのかよくわからないことを考えた。
(どうすれば)
耳元で逆流する血液。どくどくという音ばかりで、目の前の唇は確かに動いているのにそこから発せられているはずの言葉が届いてこない。
目線をずらせば、肩越しの窓から傾いた陽光がさしこんでいる。グラウンドではもう練習が始まっているかもしれない。しかし今は仲間達の声も耳には届いてこなかった。
(どうすればここから逃げられる)
どうすれば、この状況から逃れる事が出来る。
思考はぐるぐると、流れる血液と同じくらいのスピードで巡る。脳内は信じられないくらいの高速でこの状況とその打開策を思案しているのに、それ以外の部分はひどく緩慢で、身動きひとつとることができない。ロッカーに押し付けられた背中が冷たくて一刻も早く体を起こしてしまいたいのに、床にへたりこんだ足は思うように力が入らず他人のもののようだった。
(だめだ、これ以上は)
目の前で、案外綺麗な形をした唇が動く。何を喋っているのかわからない。
ぼんやりと唇の動きを見ていたら、マメだらけの手のひらが頬に触れた。
(だめだ)
耳元で心拍音。警戒信号の音にも似ている。
触れてくるそのかたい手のひらを振り払ってしまえばいい、立ち上がって軽口でも叩きながらグラウンドへ出て行けばいい、そうすればきっと冗談で済ませることができる。そうしなければ、背中に感じるロッカーの冷たさに勝るほど熱いこの全身の異常は、冗談では済まされない。
頭ではわかっているのにやっぱり力を無くした足は言う事を聞かず、頬に触れる手のひらを心地好いなんて感じている自分がいたりもして、恥ずかしいやら情けないやら気持ち良いやらもうわけがわからないままきつく目を閉じた。たぶん半分は自暴自棄だ。
「――――」
何か言われた気がした。しかし耳元ではいまだ潮騒のような血流音がすさまじく、聞き取る事はできなかった。
なに、と呟いて目を開ける。それと同時に額にあったかいようなそれでいて柔らかいような奇妙な感覚が降りて、すぐに離れた正体不明の温度に少し名残惜しさを感じながらも口をぽかんと開けて固まっていると、目前の唇がにやりと笑って窓辺から差し込む陽光を背に立ち上がった。
「ごちそーさま」
なんでだかその声はやけにはっきりと聞こえた。
逆光でよく見えなかったが、きっとその顔は笑っていたと思う。
何も言い返せずぽかんとその姿を見上げていると、ふいに部室のドアが開いて外の喧騒が戻ってくる。栄口の平和そうな顔がのぞいた。
「田島、花井、練習始まるから早く――-あれ、花井どうしたの」
すうっと耳元の心拍音がひいて、次いで訪れたのは冷や汗と血液の上昇だった。一気に頬へ血液がのぼり、頭の中が真っ白になって、冷や汗がふきだす。あと少し、どくのが遅かったら。あと少し、来るのが早かったら。
「うん、今行くー」
小柄な影をはずませて、跳ねるように田島は扉口へと駆ける。何事もなかったかのような仕草。平静とした声。それに呆然とする。
(もしかして今の、こいつ流の冗談か何か)
男にどきどきしてしまった自分に恥ずかしいやら腹が立つやらで、脱力したついでにロッカーに頭をぶつけた。冷たい。
「はーなーい。早く行こ」
扉口で振り返った田島はにやにやと笑っている。
仕方なく立ち上がって、素直に扉に向かうのも癪で二・三度ズボンを叩いてから田島を睨んだ。二度とこいつに騙されるものか、胸のうちで固く誓うついでに、額をごしごしとぬぐう。田島はそれを見て不満そうに唇を尖らせ、隣を通り過ぎようとした俺の耳元に囁いた。
「つづきはあとでね」
どうすればいいんだ俺。
今度こそ口を開けて硬直した俺を尻目に広大なグラウンドへ駆けていく田島の背中を見送って、俺は再度耳元で警戒音をはっきりと聞いた。