真夜中の幻
呼吸が、空気を吸い込んで、酸素を肺に送る……それだけ、ただそれだけの行動が、上手く出来ない。
脳が、もっと酸素を寄こせと悲鳴を上げている。頭の芯がジンジンと痺れて痛い。
体は、酷くだるくて、重くて、まぶたを開けることすら出来やしない。
まるで、赤い血の代わりに、どろりとした鉛が、血管を通って体を廻っているみたいだ。それこそ、手足の先、指の一本一本の、毛細血管まで。
……音が何も聞こえない。
一切の静寂。無音。自分の心臓の鼓動すら聞こえない。
ああ、ここは水の底のようだ。深い深い水の底。唯一違う事といえば、この息苦しさがブラックアウトする幸福な最期の瞬間は訪れず、いつまでも、いつまでも続くという事。
息が、苦しい。
書類の紙が散乱する、荒れ果てた執務室の隅にうずくまって膝を抱え、俺は漠然とそんなことを考えていた。引き千切られたカーテンの隙間から射す光はない。
悲しい、悔しい、腹立たしい……いや、ただひたすらに、苦しい。
アメリカが袂を別ってから、俺はずっと苦しかった。
『――――』
不意に、聴覚が戻る。聞こえるはずのない声に、心臓がどくんと鳴った。
驚きと尚早に駆られ、言うことをきかない体に鞭打って、頭を無理やり持ち上げた。
『イギリス』
目の前にアメリカがいた。
ああ、夢か、夢なんだな。俺、いつの間に寝ちまったんだろう。それともこれは、酸素欠乏の脳みそが見せた幻覚か。
出会った頃の姿の、小さなアメリカがそこにいた。
アメリカ、と名前を呼ぼうとしたが、喉がひゅうひゅうと鳴るだけで、声が出なかった。
小さなアメリカは、ニコニコと楽しそうに、うれしそうに、笑っている。忙しい合間を縫って訪れた俺を、いつも出迎えてくれた笑顔だった。
あ、あ、あ、ああ、アメリカ……アメリカ……!
夢ならば覚めてしまう。幻覚なら消えてしまう。それでも俺は手を伸ばさずにはいられなかった。
腕を持ち上げ、前へと進める。自然に前のめりになり、膝立ちになった。
伸ばした指先が触れる寸前、予想通り、小さなアメリカの姿はすうっと霧散し、代わってこの場を支配したのは、耳鳴りと、激しい雨の音。そして、脳裏に刻み付けられた真新しい記憶。
ああ、夢なんかじゃない。これは現実だ。
腕が重力に逆らうことを拒否して、がくんと落ちた。
息が、苦、しい。
『イギリス……』
目の前にアメリカがいた。
あいつが構えたマスケットが、銃口を俺の眉間に向けている。
青い軍服を着た今のアメリカが、雨に濡れるのもかまわずに、そこに立っていた。
耳鳴りがどんどん酷くなっていく。
雨の音が煩い。
アメリカの碧い瞳が俺を見ていた。同じ、同じだ。少年期の終わり特有の、憂いを帯びた表情も、その眼に宿した強い意思も。
だから、これは、現実なんだ。悪い夢ならどれだけ良かったことか! 見たくない、こんな現実は見たくない!
それでも俺は、目を逸らすことが出来なかった。
頬を、冷たいものが一筋伝い流れていく。その感触に思わず自嘲の笑みがこぼれた。
……涙なんかとうに枯れ果てたと思っていたのに。
それなのに、体中の水分が、全部搾り取られるんじゃないかってほど、溢れて、こぼれて、止まらなかった。
『なあ、イギリス』
アメリカが、静かに、終わりの時を告げる。
嫌だ、聞きたくない。そこから先は聞きたくない。言うな。頼む、言わないでくれアメリカ……!
『やっぱり俺、自由を選ぶよ』
耳をふさいでも、アメリカの凛とした声を断ち切ることが出来ない。
当たり前だ、これは俺の記憶なのだから。胸の奥に深く撃ち込まれた、消えることのない銃弾、なのだから。
心が疼く。じくじくと、まるで化膿しているみたいに。
息、が、苦し、い。
『俺は、君から独立する』
……嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だアメリカ。アメリカ、アメリカっ……! 嫌だ嫌だ嫌だっ!
とうとう耐え切れなくなって、俺は自分の顔を両手で覆い隠した。
なんで……なんでなんだよ!
「ぅあああああああぁぁぁぁああああぁぁあっ!!!」
久しぶりに聞いた自分の声は、酷くガラガラで、耳障りだった。
慟哭が、鳴りやまない。
い、きが、く、るし、い。
苦、しい……苦しい。苦しい、苦しい苦しい苦しい苦しい!
止まってしまえばいいと思った。この苦しみから逃れられないのならば、いっそ、止まってしまえと、魂が悲鳴を上げていた。
叶わぬ最期を希う俺を見て、アメリカはゆっくりとマスケットを下ろし、眼を閉じた。そして、その姿は暗闇の中に溶けて……消えていってしまった。
雨の音は、もう聞こえない。
聞こえるのは、耳鳴りと、肩で息をする自分の喘鳴音。
俺は、また一人になった。
ああ、そうだ。俺は一人だ。あの雨の日からずっと、ずっと。
体から力が抜け、俺は、再びその場にへたり込んだ。
重い、体が重い。ぎゅうぎゅうと俺にのしかかる水圧で、押し潰されそうだった。
『イギリス!』
やけに明るい声に、視線を上げると、三人目のアメリカがそこに立っていた。
……やっぱりこれは夢なのか。
だって、お前、眼鏡なんかかけてないもんな。
見たことのない服に身を包んだ、少しだけ今よりも大きくなった印象のアメリカは、眼鏡の奥の瞳を愉快そうに細めて、自由闊達に笑っていた。
これが、お前が望む姿なのか。俺と別れて手に入れたい、理想の、あり方なのか。
『君は相変わらず、懐古主義のおっさんだね!』
それともこれは、俺が望んだお前の姿なのか。俺はまた、お前と笑い合えるようになりたいのか。
……違う、違う夢だ。全部夢だ。夢なんだ。
小さなアメリカも、今のアメリカも、見たことの無いアメリカも。
頼む。頼むから、誰か、全部夢だと、全部嘘だと、言って、くれ。
お願い、お願いだから……!
あああ、い、き、が、く、る、し、い。
ガタガタと体が震える。寒くて、苦しくて仕方がない。
冷たく暗い水の底。俺は、深く、深く沈んでいく。
END