ほら、世界が跪く
その姿を始めて目にしたのは、涙が出るほどの安息と身を焦がすほどの決意を胸に、父と呼ぶ男の誇りを背に負ったときから約三月の時が過ぎた頃だった。
穏やかな航海の波に揺られるモビーディック号に突如見張り台から来襲を告げる張り詰めた声が降った。その一瞬に船員たちの間に流れた緊迫した空気は忽ち興奮へと変わり、久方ぶりの戦闘に湧き上がる甲板はあちこちへ走り回る音や指示を飛ばす隊長たちの声、飛び交う怒号で瞬く間に溢れかえった。どの仲間達も高揚感を隠せない猛った顔を見せる中、例に漏れずともすれば炎を迸らせようとする己の手の平を握り締めて遠い海上を見つめ、縁に乗り上げようとしてふと思いついたように振り返った。視線の先では一番隊の隊長がいつの間にかオヤジの傍へと来ている。眠たげな目が遥か遠くの水平線上でいまだ砲弾も届かない距離から威嚇の砲撃音を上げている同業者を見つめ、すと眇められた。背筋を得体の知れない緊張が走り抜ける。一番隊隊長はオヤジに何事か告げ、それに対してオヤジは面白そうにグラグラ笑い好きにしろと言った。この三月にあった小競り合いの中で知る限り、常にオヤジの傍らで戦場全体を視野に納め必要に応じて指示を飛ばしている姿以外目にしたことの無かったその男は、足取りはいつものようにどこか気だるげに入り乱れる喧騒の中を器用にすり抜け船首に立つと、奔走する仲間たちを振り返って片方の唇を吊り上げた。俺が行くよい、と言ったのだと思う。喧々とする高ぶった空間を割るように、何故か軽妙なその声が耳に届いた。同様の音を耳にした船員たちが振り返る中、男はあろうことかその背中に青く立ち昇る炎を噴き上げた。その瞬間それまでの喧騒から切り離されてしまったかのように他の一切が遥か遠くへと遠ざかっていき、不意に訪れたただ静かな空間にばさりと空を瞬く音がしてそれが翼なのだと知った。目を見張っている間にその姿は空高く飛翔し完全な獣型へと変化を遂げる。青い青い海と空の境界をさらに曖昧なものにでもする気なのか、けれどすぐにそれは全く異質なものなのだと理解した。高く舞い上がったその鳥は優雅ささえ漂わせて一直線に敵船へと突っ込んでいく。遠く離れた海上にいても敵の船が悲鳴を上げているのが聞こえ、そう間を置くことなく黒煙が昇った。それさえ嘲笑うかのように、次の瞬間には青い炎が描く飛翔の軌跡が全てを嘗め尽くしている。なんて光景だろうかと思った。炎というにはあまりに寒々しく、戦意さえ殺ぎ落として消し去るようなそれは身に馴染んだ業火とはあまりにかけ離れた意図を持つ炎だった。海に投げ出され呆然と自船が沈み行く様を見上げるしかない者達を尻目に、再び舞い上がった青い鳥は優雅に滑空しモビーディック号の上空で弧を描いて旋回すると、その身に青い炎の残滓を纏わり付かせふわりとオヤジと仰ぐ男の傍らへと降り立った。
***
今日もモビーの航海は順調だ。エースは晴れた空にそよぐ潮風に目を細め、満足そうに笑った。偉大なる海の機嫌も今はいい。何者をも拒まぬ海原はそれだけでエースの心を癒した。
目の前に広がるどこまでも果ての無い光景を眺めていると、あの男の目を覗き込んでいるようだとたまに錯覚してしまう。青く深い優しさと鷹揚さを湛えるそれは焦がれてやまない海の色、そして底知れない冷たい蒼炎。あれからあの立ち昇る艶冶な炎が忘れられずにいた。刹那に焼き付いてしまった灼熱が燠のように燻り続けているのが分かる。滅せられることのないその燈火はやがてまた大きく燃え上がるだろうという予感があった。そのときに思いを馳せて、エースは吐息を震わせた。
あの雅な青い鳥が不死鳥だと知った頃から幾度もあった抗争の中で、その不死鳥は逸りすぎる紅蓮の炎を鎮めるように少し後ろを飛ぶことが間々あった。あれほどまでに静かで圧倒的な力を持ちながらそれを仲間に向けて使う、今はまだその両翼に庇護されるだけの存在でしかない。けれど必ず、白ひげの名を悠々と誇るあの背中に追いついてみせる。脳髄を駆け巡る欲情にも似た渇望。その雄大な翼の庇護下から抜け出して、あの男の隣に立って、どんな風に世界が見えてるのか知りたくなった。