carnation
何を突拍子もないことを。普通の人間ならばまず初めにそう思うだろう。
二人の間には静寂が流れていて、そんな話が零れてくる空気ではなかったはずだ。
突然、不意打ち、予想外。誰もがそう思うはずだった。
だけど俺は違った。今度もまた素晴らしい作品になるだろう原稿から視線を外す。
無表情でフヒトさんを見つめれば、彼は嬉しそうににっこりと笑った。
そんな彼を見ながら、俺はいやに冷静に先ほどの言葉を分析している。
(たべたことなかったのか)
あまりにも自然に行き着いた先はこれだった。
人間が人間を食べるなんて、普通に考えればありえないことだ。
だけど自分はどこかで、他ならぬ彼ならば食ったことがあるのではないかと思っていたらしい。
あぁ自分の思考もどこか彼に毒されているのかな、なんてぼんやりと思っていた。
ぽかんと開いたままになってしまった口は、返答に困ったのか何の言葉も出てこない。
「・・・ノーリアクション?」
「あ、はい」
間抜けすぎる俺の顔ではどうやら彼の機嫌は良くならなかったらしく、彼はまた口を開いた。
その言葉にさえも俺はつまらないことしか言えず、彼はあからさまに不機嫌な顔をしている。
機嫌を損ねると後々やっかいなことになるのは百も承知なので、俺は現状の打開策を練ろうとする。
だがボキャブラリーの少ないこの頭ではいい策は浮かばず、結局そのまま黙り込んでしまった。
フヒトさんは上機嫌とも不機嫌とも取れない微妙な瞳で、俺のことを見る。
「どんな味がするのかな。想像もつかない」
「・・・未開と一緒、ですね」
今度は言葉が生まれて生きてくれたから良かった。少しだけ胸を撫で下ろす。
すると俺の言葉を聞いたフヒトさんは、驚いたような顔をして数回瞬きをくり返した。
珍しく面白いことが言えたのだろうか。瞬きを終えた彼の目は爛々と輝いている。
それを見て俺は瞬時に判断する。これは機嫌が良いときに見せるもの。しかも特別上等なときだ。
「面白いこというね、お前」
楽しそうな声。最後の方は上擦っていたほどに。顔は無邪気な笑顔がぴったりとはまっている。
だけどその笑みは俺の背筋を凍らせる。無垢な子どものようにも取れるその笑顔の裏に。
何かが隠れていることを、俺は知っている。知っているけど、“何か”が何なのかは知らない。
眩しい日差しの差し込める、過ごしやすい昼下がりの天気だった。
そんな平和な世界の中で俺だけは、見えない何かにひっそりと怯えている。
ふんわりと風が吹くのと一緒に、フヒトさんは俺との距離を縮めた。
風の中には少しの甘い花の香りと、彼の気配がするにおいが含まれていた。
「お前を食べて本を書いたら、ヒットすると思う?」
彼の腕が伸びてきて、長い指が俺の唇をゆっくりとなぞる。
背中は相変らず冷えたままで、体のあちこちがうまく動かないほど緊張していた。
だがそれとは逆に、心はひどく穏やかで落ち着いている。凪いだ海原を思い出たせる。
波の消えた海は、ただの大きな水溜りに近い。そこには命の息吹も何も無いからだ。
俺は視線を落として、彼の指を見た。いくつもの感動を生んできた手がここにある。
すこしだけ笑いたい気分になったが、どうしてか笑えなかった。
「いいですよ、食べて下さい。貴方の作品に関われるのならば光栄だ」
聞こえてきた声が、あまりにも淡々としていて、自分の声のように思えなかった。
多分、今の俺には何の感情も表れていない。フヒトさんでも、きっとわからないだろう。
彼の指が離れる。ゆるく拳が握られるのを見て、俺は視線の先をフヒトさんに移した。
瞳を大きく見開いている彼が見えた。これはとても驚いているときにする顔だ。
今度は笑いたい気持ちにならなかった。その代わりに、あの静かな海に風が吹いた気がした。
音も無い不気味な波が一筋、どこからともなく生まれる。
「大ヒットしてくださいね。でないと意味が無い」
「橘くん」
「読めないのが残念です。俺も聞きたかった、人間の味」
先に目を逸らしたのは、フヒトさんの方だった。これはとても珍しいこと。
離れたはずの腕がもう一度戻ってきたかと思うと、気が付けば抱きしめられていた。
いつもよりも少しばかり腕の力が強い。俺はいつもより少しだけ、息が詰まった。
「・・・冗談だよ」
耳元のいちばん近いところから、小さな声が聞こえた。
息がかかるほど近かったのに、それでも聞き落としてしまいそうなくらい小さな声。
だけど、ぴぃんと張り詰めているような、しっかりと芯のある声だった。
その声が落ちてきて、あの海に初めて水のはねる音が聞こえた。一瞬で波紋が広がる。
波は果てなく続いていき、やがて大きな水溜りは暗闇の中の海へと変わっていった。
そこには月も星も、照らしてくれるものは何も無い。
俺はぎゅうっと、フヒトさんの服を握り締める。
貴方のことを知れば知るほど、知らないことが増えていっている気がした。
漂流録の神の前では、俺は信じられないくらい無力で無知で、どうしようもない人間だった。
そんな俺でも気付いてしまった。気付かないような浅はかな人間ではなかったことを、誇るべきか迷う。
貴方は俺を置いていく。手の届かないほど遠いところへ、ひとりで行ってしまうのだろう。
そうなってしまえば、きっともう触ることも許されないし、姿を見ることさえも叶わないと思った。
去ってしまうのなら、置いていくのなら、捨てられるのならば。彼の一部になってしまいたかった。
でもこの人は、そんなささやかな俺の願いさえ聞いてはくれなかった。
こんな中途半端な優しい腕をほんの一瞬くれるくらいなら、俺を食べてしまえば良かったのに。
波の音がする。穏やかで、静かで、安らぎを与えてくれる波の音が。
これはこの腕の中でしか聞こえない。だからいつか聞こえなくなるもの。
俺はただの大きな水溜りを抱えて、ひとりで歩かなければならないのだ。
貴方は、凪いだ海の、その残酷な冷たさを知っているのか?
服の端を握り締めていた手が、震えた。
この首に噛み付いたら、少しは人間の味がわかるのだろうか。
思っていたら自分の首を甘噛みされてしまった。突然走った痛みに、体が跳ねる。
二人して同じことを考えていたのか、そう思うと笑いがこみ上げてきた。
それを静かに噛み締めていると、やっぱり肉より魚の方がいいなぁ、と彼は呑気に呟いた。
そして俺はいつの間にかネクタイを奪い取ったこの男を、どうやって引き剥がそうか考えることにした。